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街道を歩く

2015年3月29日 (日)

旧・東海道の宿場町・関宿を歩く(その3)

 昨日の続きです。
「関宿」の町並みの凡そ半分位は来ましたが、未だこの辺りは「中町」かと思われます。

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「関宿」を代表する大旅籠の1つ「玉屋」です。江戸時代の建築で、「関町並み資料館」にもなっています。

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「玉屋」の入口・店の間で如何にも旅籠と言った感じです。
旅人は、ここで草鞋を脱ぎ、足を洗って上がり込み、あてがわれた部屋へと進みます。
多分お金持ちの人でないと、ここには泊まれ無かったかも知れませんね。

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地元の和菓子「関の戸」のお店です。「きゅうひ」を砂糖でまぶした和菓子です。勿論買って食べましたが甘い甘いお菓子でした。

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「高札場」の跡。後ろの建物は、「関郵便局」で、ここが「関宿」のほぼ中央との事です。

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「関地蔵院」で国指定の重文(建造物)です。
右手が街道。本堂(正面)や愛染堂(左手に)、鐘楼の3棟が指定対象です。
天平13年(741)行基の開創と伝えられています。
近郷の人々や旅人達の信仰を集め、現在でも多くの参拝客で賑わっています。
「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」と俗謡にも謡われています。

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ここも大旅籠の1つ「会津屋」です。元は「山田屋」と言ったとか。
2階の部屋の手摺に凭れ、街道を行き交う人達を眺めたりしたのでしょうか。
また手拭いなどを干したりして。

また、右隣の家の2階が「洋風意匠」の窓が付いていて、「洋館屋」と呼ばれています。古風な町並みの中で、極めて目を惹く外観でした。

 ここら辺りから、「新所」の町並みに入ります。

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説明板が見当たら無かったので、良く判らないのですが、江戸時代の関宿の特産物として「火縄」があり、この辺り「新所」を中心に数十件の火縄屋があったそうです。
火縄は、鉄砲に用いるため大名の御用があり、また道中の旅人が煙草などに使うために購入したため、大いに繁盛したようです。
私の推測ですが、このお宅は、「火縄屋」の1軒では無いかと思いました。
表側の造りが、他では見られ無かった頑丈なものになっています。

 いよいよ「西追分」まで来ました。

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県指定の史跡・西追分です。この建物は、休憩施設で「鈴鹿関跡」の調査成果がパネル展示されています。

 ここは、東海道と大和・伊賀街道の分岐点でもあります。

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旧・東海道の「西追分」付近の様子です。東から西方向を見ています。
この先は、次の宿場町「坂下宿」に至り、「鈴鹿峠」の難所に向かいます。

 約200軒ある「関宿」の町並みは、見応えがありました。
町屋は、最も古いものは18世紀中頃の建築で、明治時代中頃までのものが半数以上を占めています。殆どが「平入り」の建物でした。

 国の重要伝統的建造物群保存地区の指定にぴったりの、見応え十分の町並みでした。

2015年3月28日 (土)

旧・東海道の宿場町・関宿を歩く(その2)

前回の続きです。
 「関宿」の約3分の1まで来ました。お昼を済まして、「中町」を西に向かって歩き始めました。

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「中町」の町並みを見通しています。

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さらに西へ歩みを進めます。格子戸が美しい家々が軒を連ねています。

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「脇本陣」の「鶴屋」さんです。
「玉屋」(次回に出て来ます)「会津屋」と共に、「関宿」を代表する旅籠の一つので、江戸時代の終わりには脇本陣も務めました。
座敷の前についた千鳥破風が、その格式を示しています。

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「吉沢家」住宅です。明治・大正年間に「岩木屋」と称して、酒造業を営み
「岩泉」と言う名前のお酒を販売していたそうです。
同時に味噌や醤油も造っていたとのことです。

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「山車倉」(だしくら)です。「関の山」の語源にもなった関宿の山車は、最盛期には16基もあったそうです。互いに華美を競い、また狭い関宿を練ったことから生まれた言葉です。現在は4台の山車が残っていますが、4か所に「山車倉」があります。

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「百六里庭」の「眺関亭」からの眺めです。今まで歩いて来た道を眺めています。「百六里庭」は、関宿の町並みの中に生まれた小公園で、関宿が、江戸から百六里余りあることから名付けられました。
「眺関亭」は、物見台になっていて町並みをやや高いところから一望出来ます。

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同じ場所から、これから向かう方向を眺めています。
奥に見える大きな屋根は、「関の地蔵院」です。

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関宿には、川北本陣と伊藤本陣の2軒の本陣がありました。
本陣は、参勤交代の大名や、公家、公用の幕臣などが利用した格式の高い宿泊施設です。現在残るこの建物は、本陣の店の部分にあたります。

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「伊藤本陣」跡の近くにある「橋爪家」で、角地に建っています。
「橋爪家」は、江戸時代の初めから、両替商を営み、江戸にも出店を持つ豪商でした。街道に面して、三角形の屋根を見せるこの建物は、関宿では珍しいものです。

 ここまでで、関宿の約半分位は来たでしょうか。次回に続きます。

 

2015年3月21日 (土)

旧・東海道の宿場町・関宿を歩く(その1)

 「関宿」(せきじゅく)は、江戸時代の東海道53次の内の、江戸から数えて47番目の宿場町です。三重県亀山市にあり、電車で行く場合は、JR草津線の柘植駅で関西本線に乗り換えて「関」駅で下車します。
駅からは、歩いて約10分程です。「関宿」は、国の「重伝建群保存地区」に、昭和59年に指定されました。
 「関宿」の範囲は、東西の追分の間約1.8Kmあり、江戸時代から明治時代に建てられた古い町家が200軒余りあります。
 町並みは、3つに分かれていて、東から「木崎」 「中町」(ほぼ真ん中) 「新所」 と言います。

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「関宿」の東の入口にあたる「東の追分」で、三重県指定の史跡です。
東海道と伊勢別街道との分岐点です。
大鳥居は、伊勢神宮を遥拝するためのもので、20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮の際、内宮の宇治橋の鳥居が、ここに移されて来ます。
常夜灯や道標なども残っています。

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「木崎」の町並みです。電線は表通りには無く、裏の通りにあって、裏から表に取り込む形になっているそうです。

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「東の追分」の近くにある「岩間家」です。屋号は「白木屋」と言い、建物は200年以上経っているとか。昔は、街道で働く人足や車夫の定宿だったそうです。
格子戸に吊り下げられているのは、「絵手紙」です。これから見て行く各戸に見られます。

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この辺りの各家は、新しい様ですが、古い町並みに合わせた形で、造られています。

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「木崎」の町並みが続いています。この辺りの家々も比較的新しい感じがします。

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「浅原家」で、屋号は「江戸屋」と言いました。江戸時代は、米や材木を商っていたとのことで、「万延」の記録があるとか。「万延」とは、1860~61年です。「桜田門外の変」があった年です。この建物は、江戸期の面影を見事に留めていると言われています。虫籠窓や「ばったり」(床几)も見られます。

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「御馳走場」とあります。「御馳走場」とは、関宿に出入りする大名行列の一行を、宿役人が出迎えたり見送ったりした場所です。
関宿には4か所の「御馳走場」があったそうです。

「御馳走場」跡を少し横道を入ったところには、「大井家」があります。

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「大井家」は、代々「玄庵」と名乗る医家でした。眼科・産科・内科など専門としていた様です。明治初年には、西洋医学も取り入れ、種痘も出掛けたとのことです。

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JR関駅から、この街道に入った角にある「岩」と言う食事場です。
お昼はここで戴きました。お弁当を頼んだのですが、風呂敷に包んで出て来たので吃驚しました。
江戸時代は「岩間家」と言い、幕末に建てられ、明治・大正には料亭を営んでいたそうです。
ちょつと判り難いと思いますが、左端の庇の上に何やら物体が見えます。

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漆喰彫刻で、魔除けの虎だそうです。他にも、鯱・亀・鶴・鯉・龍などがあるそうです。

 「木崎」の町並みは、ここまでで次は「中町」の町並みを歩きます。

2014年2月19日 (水)

河井寛次郎の足跡を訪ねて その2

 昨日の続きです。
近鉄電車の山田川駅近くで、お昼を済ませた後は、今度は北に向かって歩くことにしました。
最終の目的地は、新祝園駅(しんほうそのえき)です。

 歩き始めてから直ぐに目に入ったのは、このお墓でした。
 場所は、「北ノ庄」と言う集落です。

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「藤原百川公墓」とあります。
(ふじわらのももかわ)とは、奈良時代末期の上級官人です。
「大化の改新」で中大兄皇子(後の天智天皇)を助けた、藤原鎌足の曾孫に当たります。
道鏡の専横を阻止し、追放して光仁天皇を立て、さらに山部親王(のちの桓武天皇)を助けて、平安遷都への道を拓いた人です。
 その辺りに墓があったことは古い記録にあったものの、その後墓の存在が不明になっていたのを、明治27年(1894)に、墓の存在をここと決め、平安遷都1100年記念事業として、正式にここに墓を造ったとのことです。

 やがて「吐師」(はぜ)の集落に入りました。

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集落内を暫く歩き回りました。狭い道が迷路の様に繋がっていました。

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 この集落では、長屋門と言うのでしょうか。このような形の門構えが、多く見られました。

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 この集落でも、蔵が目に付きました。このお宅の建物の構造は、やや複雑な形をしているように思いました。
幾つもの棟が見られます。

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 門の様子は撮っていませんが、こちらも長屋門と言えそうです。
右の建物は蔵と思われます。この集落の家々は、何処も立派な建物が多いように思いました。

 木津川市(吐師)から、精華町(菅井)に入りましたが、田んぼや畑ばかりの道に出て仕舞いました。
行った道は行き止まりだったり、田んぼの畦道だったりと、9月の暑い太陽の中を右往左往して、やっと広い農道に出ることが出来て、ほっと一息。

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 精華町菅井の集落の田畑の部分です。集落の横を通って、近鉄京都線の線路沿いの道に出ました。
横田と言う集落も対象になっていたようですが、右往左往とれ果て、真っ直ぐ新祝園駅に向かうことにしました。

 今回の散策の元になったのは、陶芸家・河井寛次郎のエッセイ「火の誓い」(講談社文芸文庫)です。
その元は、雑誌「民藝」の1944年7月号に発表されたものだそうです。

 
その一文から、
今年の三月の或る日自分は南山城の山田川村の大仙堂の部落から、大里、北の荘、吐師へかけて次々に見付かる素晴らしい村の姿に惹きつけられて歩いた。・・・(中略)
 
幾部落かを経て吐師を出て、暫く野中の広い新道を行くと川西村菅井の部落にでた。
 ・・・(中略)・・・
 短い日を惜しみながら帰ろうとして新祝園駅に急いだ。
真直ぐな新道の中に駅は見えていたが、祝園に這入る手前の左に低い丘地の上に素晴らしい一と村が盛り上がっているのを見ては素通りは出来なかった。・・・(後略)
 
今回、私達はほぼ上に書かれている範囲を歩いたことになります。
 「低い丘地云々」は、精華町の今の学姸都市があるところを指しているものと思います。

 
上記に書きました文章は、公益社団法人 精華町シルバー人材センター内の「ふるさと案内人の会」から戴いた資料の一部を使わせて戴きました。
 有難うございました。

 

 

2014年2月18日 (火)

河井寛次郎の足跡を訪ねて その1

 京都の地元紙・京都新聞のコラム「凡語」の内容に惹かれ、実際に現地を訪ねることにしました。
 
その記事によりますと、1944年 陶芸家・河井寛次郎が54歳の時、近郊への小旅行に出ました。
訪れたのは、今の木津川市や精華町で、足繁く通ったようです。
 
その寛次郎の足跡を訪ねるツアーが、精華町の人達の企画により実現し、記者も参加したと言うのが、「凡語」の内容でした。
 
私達は、あらかじめそのツアーについての資料を、「ふるさと案内人の会」の担当の方から戴き、出掛けました。

 近鉄電車京都線の山田川駅で下車し、木津川市相楽(さがなか)大里周辺を歩き回りました。
しかし、「凡語」に書かれている様な風景には、残念ながら出会うことは出来ませんでした。

 以下は、大里の集落内の様子です。

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確かに水路は、縦横にありましたが、この様に蓋されているところが多かったです。
しかし、蔵が多いことには驚きました。

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とある水路には、この様な水力を動力とした何かがありました。
何をされているのか、ちょっと想像が付きません。回転力では無さそうです。
また、違う水路には驚く程大きな黒い鯉が泳いでいました。

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大里の集落内ですが、ここにも大きな蔵がありました。
集落の中で、お仕事をされていた「おばさん」に、土塀のことを尋ねたのですが、土塀はどんどんと壊されていて、殆ど残っていないとのお話でした。
現実に、この先の家でも、土塀を壊しておられるところですよ、と言って指差しておられました。

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集落の真ん中辺りには、このような祠を見掛けました。お地蔵さんでしょうか。

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集落の外れには、幾つかの池が見られました。何のため池でしょう?
池の水を活性化するためでしょうか、激しく水車が回っています。
 再び、大里の集落に戻って歩きました。

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ここの水路も、蓋がされていました。

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ここでも、蔵が多く見られます。蔵は、その家の豊かさを示すものではないでしょうか。
ここの水路も蓋されていました。

全体の印象としては、町並みは美しく、水路は多くは蓋がされていて、直に見られる水路は少なく、土塀は全く見られませんでしが、歴史を感じさせる懐かしい景観を保っていました。

 この後、山田川駅近くに戻り、駅傍の喫茶店でランチを戴きました。