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京都・石畳の街

2014年7月23日 (水)

京都 石畳の街を訪ねてー10 (宮川町)

 花見小路を歩いた後は、これも京都の5花街の一つ「宮川町」まで足を延ばしました。
五条の橋から川端通りを上り松原の橋へ。 松原の橋から東へ行きます。 
直ぐの南北の通りが宮川町になります。

相変わらず雨が降っています。前方から傘を差した男性数人の姿が見えます。


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祇園や先斗町に比べると目立ちませんが、夜になるとお茶屋さんの提灯に明かりが灯ってしっとりとした風情になります。

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お稽古に向かわれる芸妓さんです。
お昼すぎにこの通りを歩くと、必ずと言って良いほど舞妓さんに出会います。
ここは舞妓さんに出会える街ても有ります。
 ご存知のように、京都には、5つの花街があります。
祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町、上七軒です。 
全部で 約170軒のお茶屋さん、約60人の舞妓さん、約190人の芸妓さんがいるそうです。 
 

2013年6月14日 (金)

京都 石畳の街を訪ねてー9 (祇園 花見小路)

 前回「西花見小路」の続きです。
雨の花見小路を歩いています。
 祇園において、四条通が東西のメインストリートとするなら、花見小路は南北のメインストリート。
ほぼ祇園の中央を南北に横断して北は三条通 り、南は安井北門通りまでの全長約1kmの路です。


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花見小路は四条通りを堺にして、北側と南側では町並みの雰囲気が大きく異なります。
北側はスナックやクラブなどが入居するテナントビルが建ち並び、
南側は竹矢来に格子作りの茶屋や料理屋が建ち並びます。

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 四条通りの南東角には有名な一力茶屋があり、通りを進むと両側にはお茶屋や料理屋などの町屋が並び、京都らしい風情の景観となります 

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京都の花街を歩いていると必ずと言っていいほど舞妓さんに出会います。

古い町並みが素晴らしい花見小路南側ですが、その歴史は以外に新しく、
今に言う祇園町南側一帯は明治までは建仁寺の寺領で、明治 初期の廃仏毀釈によって寺領が狭められ、明治7年に祇園甲部お茶 屋組合が7万坪を買い上げ、花街として整備されました。
 

2013年1月 9日 (水)

京都 石畳の街を訪ねてー9(祇園 西花見小路)

 前回上七軒の石畳(ここです)をご紹介してから随分経ちました。
久しぶりの「京都 石畳の街を訪ねて」です。
今回は雨の祇園界隈を歩いてみました。
最初は「西花見小路」です。

 

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この通りは、道幅も狭く短いですが、風情が有ります。
特に雨が風情をより高めているように思いました。


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花見小路ほど賑やかではないですが、しっとりと落ち着いた町並みが、
本来の祇園の雰囲気を漂わせていている通りのように思います。
穴場的なお散歩スポットではないでしょうか。

2012年11月 9日 (金)

京都 石畳の街を訪ねてー8 (上七軒-2 )

 前回は、上七軒を紹介しましたが、今回はお茶屋さんなどの並ぶ通りから外れて東の道を歩いてみました。
こちらも、昨年から一帯で石畳風の工事が始まり、今年の夏に完成しました。


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昔ながらの町家が並ぶこの通りも、石畳が似合います。
ここにはお茶屋さん、置屋さんが軒を並べていますが、静かな佇まいの街並です。


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左の二階建ての立派な木造住宅は、「上七軒お茶屋協同組合 」です。


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平日の昼前ですが、人影が見えません。

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左のお寺は、西方尼寺です。舞妓さんたちが茶道を習っています。
 

上七軒を少し外れるだけでひっそりしています。
私はここを散歩するのが好きです。

2012年11月 8日 (木)

京都 石畳の街を訪ねてー7 (上七軒ー1)

 石畳の街を訪ねて、大黒町の次は同じ西陣に位置する「上七軒かみしちけん」にやって来ました。
こちらはお馴染京都の5花街の1つです。
 歴史は古く、室町時代に北野天満宮の再建の際に残った機材を使って
7軒の茶店を建てた。
これが「上七軒」の由来で、桃山時代に豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に茶店側は団子を献上したところ大いに誉められて以来、
また、西陣の結びつきで花街としての繁栄を極めます。


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昨年から着工されていた石畳風の舗装工事も今年の夏の終わりに完成し、
落ち着いた風情になりました。

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お店の方が水撒きをされました。しっとり落ち着いて花街らしい雰囲気です。

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足元を照らす灯りも付けられより夕方近くには余計に風情が感じられます。

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写真の中に黒い矢印が見えますが、風情を壊すと思っていましたが
最近、剥がされて修復中です。

 毎年春になると『北野をどり』が上演されて少数ながらにして良い技芸を磨き披露しておられます。

 又、数年前から夏は歌舞練場の庭園で舞妓さんの接待によるビアガーデンも行われ、
大阪や神戸など遠方からもお客さんが来られます。
 

この後、少し外れた東の道を歩いてみました。

2012年11月 7日 (水)

京都 石畳の街を訪ねてー6 (西陣大黒町)

 前回(島原)の続きです。
京都には、観光地は勿論、路地やお寺の境内にもさまざまな表情をした
石畳があり、優しさやしっとりした風情を感じさせてくれます。
今回は、今でも西陣織の中心を担っている西陣大黒町を歩きました。

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昔、京都の町は二条城の北を上京、南を下京と呼ばれていました。
上京の東は御所を中心に公家や武家屋敷が並び、御所に勤務する貴族や官僚、
天皇を中心とする公家や女房たちが住んでいました。
そしてその西には織物の町がつくられ、優れた職人が集まり、
良質な素材が集まりました。

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平成元年、住人らの手によって「大黒町まちづくり協議会」が設けられ、
景観に関する協定が定められました。
外壁は原色を避けるなど、職・住が一体化した特色ある景観づくりがされています。

数年前に、通りが石畳風に変わり、電線は地中埋設され、すっきりした街並みが出来ています。

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↑も↓も全て、木材が使われた建物で、最近では珍しいですが
この街には似合いますね。


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このような看板がかかっています。

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勿論、石畳に町家は似合いますね。

尚、今回は紹介していませんが、「織成館」”須佐命舎”が有り、中を拝見することが出来ます。
 

ここは、京都市上京区浄福寺通上立売上る です。

 

2012年11月 5日 (月)

京都・石畳の街を訪ねてー5 (島原)

 京都の「石畳の街」を訪ね歩いています。
石塀小路 高台寺通~一年坂・二年坂 産寧坂 清水坂 と愉しく歩いてきました。
 そしてその後
「島原」を訪ねました。
「島原」は、我が国最初の官許の花街で、
当初は二条柳馬場に開かれ、その後六条三筋町に移転し、
更に寛永18年(1641)にこの地に移されました。
 ここの正式な地名は、西新屋敷と言いますが、急な移転騒動が、当時九州で起こった「島原の乱」に似ていることから、
「島原」と呼ばれるようになったとのことです。

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「島原」と言えば、この「大門」です。「島原」の表入り口に当たります。
「大門」は、島原創建から設けられたそうですが、度々焼失し建替えられ、
今の「大門」は慶応3年(1867)に、神社仏閣なみの本格的な高麗門として、建替えられたとのことです。
京都市登録有形文化財として登録されています。

この周辺から石畳風の道が、展開します。

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今も残るただ1軒の置屋「輪違屋」さん(左手)の前の道も、この通り石畳風です。
置屋は太夫等が居るところで、揚屋に出向きお客様の接待をします。

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「輪違屋」さんを、上とは反対の方から見ています
私は現役時代に、一度ここで或る会合の宴会を経験したことがあります。
襖に大きな和傘を広げた絵が描かれていて、太夫さんや禿さんなどが出て来て、
接待を受けました。
何とも言えない情緒ある雰囲気でした。

「輪違屋」さんの創業は、元禄年間とのことで、現在の建物は安政4年
(1857)に再建され、明治4年(1871)にほぼ現在の姿になったそうです。
京都市の指定有形文化財です。
現在は、お茶屋として営業されているため、非公開となっています。

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表玄関の上に掲げられた外灯です。2つの輪が並んだ家紋でしょうね。

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こちらは、ただ1軒残る揚屋の「角屋」(すみや)さんです。
島原で開業されてから今日まで連綿と続いています。
前の道は、同じく石畳風です。
揚屋は太夫や芸妓などを一切抱えず、置屋から呼んで宴会を催すところです。
この建物は、揚屋建築唯一の遺構として昭和27年に重要文化財に指定されました。
幕末には、倒幕派と新撰組との騒乱の場でもありました。
現在は、「角屋もてなしの文化美術館」として、一般に公開されています。
公開は期間限定のようで訪れた時は閉まっていましたが、
今は公開されている筈です。

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「角屋」の北面の様子です。表側と変わらない位の奥行きがあります。

この北面の西端には、こんな石碑が建っています。

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「此附近 東鴻臚館址」と言う石碑と、説明書です。
平安時代、都の中央道路の「朱雀大路」を挟んで、東西に2つの外国からの使節を接待する施設がありました。
その東側にあった施設「鴻臚館」(こうろかん)の址です。
そんな建物の址に「角屋」があると言うのも、面白いことと思いました。

 次は、北の方に移動して、西陣周辺にある「石畳の街」を、ご紹介します。

2012年10月15日 (月)

京都・石畳の街を訪ねてー4 (清水坂)

 京都の石畳の街を訪ねて、「産寧坂」から「清水坂」まで遣って来ました。
10時頃ですが、さすが京都市内一の観光客の多さ、団体さんに修学旅行生、 
  外国の方達と大賑いの「清水坂」です。

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ここは「産寧坂」から「清水坂」に入って直ぐのところです。
石畳ではなく、「石畳風」ですね。左の玉垣は「経書堂」です。
道の左右には、びっしりとお土産屋さんなどが並んでいます。

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そんな中に、こんなところも見られます。
のれんが見えますので、料理店かと思われますが、石畳は少し凝ってあります。
大戸の開閉にも工夫が見られます。

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清水寺前に遣って来ました。堂々たる「仁王門」が聳え立つ如く見えました。
右手には「西門」と「三重塔」の上部も見えます。

 この場から手を合わせて拝みました。そして、坂を下り始めます。
その途中、産寧坂の手前を左側に入って行く道があったので、
何となく入って吃驚。初めて見る光景が展開しました。
私が今まで知らなかっただけなのですが・・・。

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その道を入ったところの路上に、こんなものが目に飛び込んで来ました。
いろんな野菜の絵が描かれています。

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上の絵の先、右手に「おかべ家」と言う、豆腐料理のお店がありました。
京町家風の佇まいのお店です。
帰宅して調べて見たら「清水順正・おかべ家」と言う、湯豆腐で有名なお店でした。
京料理も食べられる様です。
清水通から一筋入るだけでここは全く違った光景です。
人影も無く落ち着いた佇まいは、別世界に入り込んだ気持ちです。

 そして、「おかべ家」の向いには「五龍閣」と言う建物があります。

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大正10年に建てられたもので、清水焼の窯元であり、
碍子や義歯まで製造し財を成した松風家の元私邸で、
京都大学建築科の創始者武田五一の設計によるものです。
国の「登録有形文化財」となっています。
現在は、カフェとして使われているそうです。

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道の突き当たり奥にある階段上から、振り返って見ると、こんな光景が目に入ります。

 そろそろ「清水坂」ともお別れして、次の「石畳の街・島原」に向かいます。
 この「清水坂」は、「松原通」の東の端に当たります。
 ですから「松原通」は、清水寺への参詣道でもあります。

2012年10月14日 (日)

京都・石畳の街を訪ねてー3(産寧坂)

 「石畳の街」を訪ねて、一年坂~二年坂と進んで来ました。
そして、いよいよ「産寧坂」(三年坂とも言います)へ来ました。
 この坂は、400年以上も前からあったそうです。
 何故この様な名前が付けられたかについては、数説ある様です。
①清水寺にある子安の塔に安産のお参りをする時にこの坂を通るので、
お産が安寧に済む様に、すなわち産寧の坂と言う説。
②大同3年に出来た坂と言う説。
③そして清水寺に再度お参りする時に通る坂、「再念坂」と言う。

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二年坂を上ったところの様子です。
石畳が鈍く光っていますね。
右端の見える提灯のお店は「奥丹」と言う湯どうふで有名なお店です。

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「奥丹」の玄関です。南禅寺にもお店があります。

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道の右手に「八坂の塔」の先端が見えました。

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観光客に人気の場所ですから、人通りは絶えません。
行く手に「産寧坂」の石段が見えて来ました。

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道の左手に蔵があって、その奥には料理屋がある様です。

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人通りが絶えませんので、この様な光景となりました。
撮るのに少々焦ったかも知れません。
この石段を上り切ったところは、「清水坂」となります。

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「産寧坂」の石段を上ったところに建つ石碑です。
この石碑が建つ反対側には、有名な「七味家」があります。

 この後、「清水寺」に向かいました。

2012年10月12日 (金)

京都・石畳の街を訪ねてー2(高台寺通~一年坂・二年坂へ)

 「石塀小路」を通り抜けて、「高台寺通」に出ました。

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この通りも立派な「石畳」の道です。
右手の人がいる先の坂道(ここも石畳です)を上ると、「高台寺」に行けます。
この道の突き当たりは「祇園閣」がある「大雲院」です。
さらに、その先は「円山公園」に続きます。

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その先の「石畳」の路上では、女性が3人、何やら話し込んでおられます。
想像するに、左の若い女性2人(観光客)が、右のやや年上の方(土地の人)に道を尋ねている光景に見えました。

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この道の南端近くからは、この様に「八坂の塔」の先端が見えました。
手前の茅葺屋根は、「春光院」の山門です。
 
この後は「霊山観音参詣道」を渡って、「一年坂」に向います。

 ここで、この辺りの坂の名前について。
最初は「産寧坂」(三年坂とも)だけでしたが、その手前にも坂があって、
「産寧坂」の手前故「二年坂」(二寧坂とも)と名付けられました。
さらに、その手前に坂道と言う程ではないのですが、「二年坂」の手前だから
「一年坂」と最近名付けられた様です。

 その「一年坂」から歩きます。

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道は入ってすぐに曲がりくねっています。
右手の石垣の家(今は料亭の様)は、竹内栖鳳の旧宅とのことです。

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やがて道は、直線部分になりますが、その先は「二年坂」へとつながります。   
 両側ともに普通の民家ではないですね。

 この辺りから「産寧坂」にかけての一帯は、国の「重要伝統的建造物群保存指定地区」となっています。

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「二年坂」の道に出ました。先程からずっと「石畳」が続いています。
坂は、この道の先にあります。

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「二年坂」が見えて来ました。

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「二年坂」の石段です。
 「この坂で転ぶと、2年以内に死ぬ」の言い伝えがあるそうです。
それは、転ばない様に坂道を歩く様にと言う戒めの言葉だとか。
この坂の手前右手には、竹久夢二の寓居跡があります。
何でも恋に落ちた夢二が、大正5年に相手の女性と数ヶ月住んだ所だとのことです。

 この石段を上ると「産寧坂」へと繋がります。


 

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