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旅行

2015年1月31日 (土)

久し振りに倉敷の町を歩く

 
 前回の続きです。
「備中高梁市」への旅には、岡山から伯備線に乗ると、倉敷(在来線)を経由します。そこで折角ここまで来たのだからと、「倉敷」で途中下車して、久し振りに倉敷の町・特に「美観地区」と言われるところを散策しました。
勿論この一帯は、「重伝建群保存地区」でもあります。

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「大原家住宅」です。備中地方きっての豪商の一人・大原家の住宅です。
倉敷窓や倉敷格子、それに白壁などは独特の意匠を備え、倉敷の典型的な町家として往時の姿を良くとどめています。

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「有隣荘」です。大原孫三郎が家族で住むために建てた大原家の別荘です。
独特の製法で焼かれた瓦は、見る角度によっては緑色に光ることから、地元では「緑御殿」とも呼ばれているそうです。

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倉敷と言えば「大原美術館」ですね。今回は中には入りませんでしたが、以前来た時には拝見しています。
昭和5年(1930)設立の、日本で最初の私立西洋美術館です。

この一帯は、豪商・大原家の繁栄の姿をとどめる一角と言えますね。

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美観地区は、倉敷川(高梁川の支流)を真ん中にして、両岸に拡がっています。左手には「有隣荘」が、右手には「大原美術館」があります。
北から南の方角を見ています(流れが見えないので、どちらが上流なのか判りません)。

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川沿いに町並みを散策します。

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さらに南へ進んでいます。右手の建物は、「倉敷考古館」です。
江戸時代の土蔵造りの米蔵だったものです。

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「中橋」です。倉敷川は、ここで大きく右に折れます。

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中橋の近くにある「倉敷館」(観光案内所)です。
大正6年(1917)に倉敷町役場として建てられた洋風木造建築です。

今度は、対岸の建物などを見て回りました。

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「倉敷民芸館」です。江戸時代後期の米倉を活用したものです。

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ちょっと中を拝見しました。米倉と言いますが、中々立派な倉庫です。

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「中橋」の近くの橋です。私はこの景観が気に入りました。

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倉敷川を行く結婚式に臨むカップルに出会いました。
この一帯では、「倉敷川舟流し」が運行されています。

 倉敷市は、瀬戸内海に面する岡山県の第2の都市です。
江戸時代には商人の町、明治時代には繊維工業の町、近年には瀬戸内海沿いの重工業地帯として、発展して来ました。
 豊かな自然にも恵まれ、農業や漁業も盛んです。(観光パンフレットより)

2015年1月29日 (木)

中国山地の町・備中高梁市へ(その5)吹屋地区-3

 前回の続きです。
重伝建群地区指定の「吹屋地区・べんがらの町並み」を歩いています。
 その後半です。

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やはり弁柄を使った住宅が多いです。それと「妻入り」の住宅も、結構ありました。緩やかな下り道になっています。
先を歩くお二人は、左の方は観光客で、右の方は土地のおばあさんです。
人影は、極めて少ないです。

何軒か、目立った住宅をご紹介して行きます。

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東尾家住宅です。明治中期の建物、明治期5軒あった弁柄屋のうちの1軒でした。蔀戸(しとみど)があるのは、この町並みの中でここだけだそうです。

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ピンクに染まった弁柄の壁です。装飾性に優れた外観が目を引きました。

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弁柄塗り一杯の郵便局です。華やかです。花街を連想させる外観です。
初代は明治7年に、ここに造られて、この建物は3代目だそうです。
平成5年に、この町並みに合わせた形で造られました。

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町並みも終わりに近付いて来ました。右のお宅の塀も少し赤味掛かっています。

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如何にも弁柄の町を強調したお宅が続きます。屋根も壁も格子戸も。
今来た道を振り返って見ました。

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このお宅は、妻入りであり、正面の格子や手摺などが特徴的です。

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いよいよ、弁柄の町並みともお別れです。振り返って見ています。
見応えのある、印象深い町並みでした。
流石、「重伝建群地区」だと思いました。

 岡山県備中高梁市とはお別れですが、最後に1か所だけ氣になるものをご紹介します。

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走るタクシー内から撮った写真で、邪魔なものも写っていますがご容赦願います。見て戴きたいのは、柵の向こうに見える「塀」なんです。
「塀」の向こうには「高梁川」が流れています。
この「塀」が、何と延々と凡そ2Kmに亘って続いているのです。
右手の先には、「備中松山城」がありますので、城下町の雰囲気を出すために造られたのかなと思いますが、タクシーの運転手さんも良く知らない様でした。
観光案内地図にも載っていないものです。
車中では、景観問題で議論沸騰の状態で、JR備中高梁駅に着きました。

 今回の旅では、ついでに「倉敷市」にも寄りましたので、次回にご紹介します。

2015年1月23日 (金)

中国山地の町・備中高梁市へ(その4)吹屋地区-2

 いよいよ「重伝建地区・吹屋地区のべんがらの町」を、町並みの奥から歩き始めました。

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町並みの奥のスタート地点から、町並みを見通しています。
右側の手前は、「旧片山家住宅」で、公開されています。
左側の2軒先は、「郷土館」で、こちらも公開されています。
どちらも見学させて戴きました。

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反対から見た景観です。1枚目の写真は、突き当りの場所から、こちらに向かって撮ったものです。左側が「旧片山家」です。突き当りから先(右手)にも、町並みは少し続いています。

 先ず、見学の始めは「旧片山家」からです。国の重要文化財に指定されています。この地区の中核的な建物として、保存修理をして公開されています。

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片山家は、江戸時代中期に、早くから弁柄の製造を手掛け、「胡屋」(えびすや)の窯元として、弁柄仲間の株を永く保有し、広兼家などと共に苗字帯刀を許されるまでになりました。↑は、主屋の内部です。

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2階に上がって見ますと、手前が「後継者居室」と、左手奥には「主人寝室」がありました。

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主屋の奥には、工場がありました。
ここは、「弁柄蔵」と言い、内部は展示室になっています。

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これが弁柄です。右手が完成品です。要は硫酸鉄の赤い粉です。

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製造工程の最後の計量から封印までです。
人の姿があって、一瞬ぎょっとしましたが・・・。

 次に、向い側にある「郷土館」を見学しました。

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「郷土館」の外観です。こちらは片山家の分家の様です。
明治12年3月に完成したものです。
間口 5間、奥行 16間の中級の商家の定形だそうです。

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入口には受付があって、おばさんが座っておられました。
ブログのことを話しますと、「沢山の方が、もっと来て貰える様に言うてくださいね」と仰っていました。

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母屋の奥座敷です。内装は生漆と弁柄で塗り上げ、それぞれに飾り金具を用いた仕上げになっています。
向こうに見えるのは、母屋の採光のために造られた中庭です。

この家の特徴は、木組みに巨材を使い、細部は巧緻に造られていることだそうです。

 両片山家の見学を終えて、町中を歩きました。次回にご紹介します。

 ここで、弁柄(べんがら)について、資料から。
宝永4年(1707)に始まったとされる吹屋地区の弁柄生産は、宝暦11年(1761)頃に緑礬(りょくばん)を原料とする製法が確立されて本格化しました。
弁柄は、建材や家具の塗料、陶磁器や漆器の顔料として、国内に広く流通しました。
しかし、昭和26年に緑礬の生産が途絶えると、弁柄の製造は次第に衰退します。その後も合成された硫酸鉄を原料として生産は続けられましたが、昭和46年になって順次廃業が始まり、遂に260年余りに亘った吹屋の弁柄生産は、その幕を閉じました。





















2015年1月21日 (水)

中国山地の町・備中高梁市へ(その3)吹屋地区-1

 第2日目は、今回の旅のもう1つの目的の地・重要伝統的建築群地区指定の「吹屋地区」へ行きました。交通が良くないので、昨日に続き同じタクシーの運転手の方に案内して戴きました。

 「吹屋地区」は、所謂「べんがらの町」と言われているところです。「べんがら」はご存じでしょうか。詳しくは後程述べますが、要は化合物で出来た「赤い粉」です。

 先ず、「べんがら」でお大尽になった「広兼邸」を訪れました。

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これが「広兼邸」の全貌です。高い石垣の上に建てられた、お城の様な邸宅です。左手の道から入って、坂道を上ってほぼ真ん中にある入口(黒い建物)の楼門に到達します。敷地は 2581平方mあり、建物は右手から、土蔵・離れ座敷・本宅(楼門の後方)・長屋(左手)などがあります。
ここでは、2度にわたり、映画「八つ墓村」の撮影が行われています。
 

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 お城の入口みたいな立派な「楼門」です。付近には、「門番部屋」や「不寝番部屋」などがあります。

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 「本宅」を斜めから見ています。
ここには、主人居室・寝室・居間・客間・玄関・店の間・台所などがあります。
323平方mあります。

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 ↑から続く、「本宅」の中央から左側の様子です。 

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 「本宅」の内部です。手前の部屋は、客間です。

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 「台所」です。

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「居間」です。2つの神棚があります。

 ここで、「広兼家」について(戴いた資料から)
 「広兼家」は、大野呂の庄屋で、2代元治が享和・文化の頃、小泉銅山とローハ(べんがらの原料)の製造を営み、巨大な富を築き、ほぼ現在の建物や石垣を文化7年(1810)に建てました。
 「離れ」は、大正の建築で、お茶室・化粧部屋・客間・風呂などがあります。
当主の結婚式に一度使用しただけで、以後は使用されていないそうです。

 

「吹屋地区」の町並みを歩く前に、町の外れにある今はもう使われていない「旧・吹屋小学校」を訪れました。

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中央の2階建てが本館です。左右の平屋の建物は東と西の校舎です。

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本館に近付いて見ました。
県指定の重文です。明治6年(1873)に開校。同32年に「吹屋尋常高等小学校」に改称、現在の場所に移転、同33年(1900)に木造平屋の東西両校舎が落成。
ここでは、NHK連続テレビ小説の「カーネーション」や「ごちそうさん」のロケが行われました。

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旧小学校校舎の左手奥には、良く似た建物がありました。
「ラフォーレ吹屋」と言うそうですが、「旧・中学校」とか。
旧小学校と良く似た感じでした。

この後、いよいよ「べんがらの町」を歩きました。

「吹屋地区」について
この地区は、江戸時代中期頃に、銅山で始まったところで、その後銅の採掘時に捨てていた硫化鉄鉱から、弁柄造りを発見し、発達したところです。
往時は、商人や牛馬が盛んに往来したとのことです。
弁柄を使って、屋根瓦や壁、格子などが造られました。
町全体が、ほんのりと赤味がかった感じを受けました。

2015年1月20日 (火)

中国山地の町・備中高梁市へ(その2)市内を歩く

 念願だった「備中松山城」を遠望した後は、一旦今夜の宿の「高梁国際ホテル」に入り、荷物などを置いて、市内見物に出掛けました。
 ホテルの前の道「城見通り」を北へ向かいました。北方向の先にお城があります。

 先ず見付けたのは、「高梁市郷土資料館」でした。

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明治37年に、旧高梁尋常高等小学校の本館として、地元の大工さんが造ったそうです。所謂「擬洋風建築」でして、2階建ての建物は講堂だそうです。

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その次にあったのは、「高梁基督教会堂}(県指定史跡)です。
明治22年(1889)に建設された、日本最古参のプロテスタント教会です。
明治12~13年に掛けて、新島襄がここを訪れ布教を始めてから、教会堂の建設に至ったそうです。

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JR伯備線の線路を渡って、さらに北に進みますと、「頼久寺」がありました。
お城の様な感じがしました。
石段を上って、境内に入りました。

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足利尊氏が、諸国に命じて建立させた「安国寺」の一つです。
「天柱山安国頼久禅寺」と言います。
境内には備中松山城主の墓もあります。寺号は松山城主の上野頼久から付けられたものです。
また、庭園は小堀遠州の初期の作庭(1605年頃)の庭園があり、国指定名勝になっています。

 さらに、北に進みますと「石火矢町」の武家屋敷通りになります。

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その通りの様子です。旧武家屋敷は、2か所が公開されていました。

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その一つ「旧埴原家」(きゅう・はいばら・け)住宅です。
120~150石取りで、近習役や番頭役などを勤めた武士の家です。

市指定の重文です。

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「座敷」です。12畳あります。本床造り・違い棚・天袋に付け書院(左手奥)には禅宗風の火燈窓(花頭窓)などが施されています。

もう一つは、ここ「旧・折井家」住宅です。

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この建物は、今から180年前の天保年間に建てられたもので、200石前後の武士が住んでいたものです。
建物は、この長屋門と母屋からなっています。
長屋門内には、馬屋・中間部屋・物置などがあります。
母屋は書院造りで、中庭などがあります。

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奥座敷には、この様な人形が置かれていました。
親子3人の会話の様子でしょうか。
なお、邸内には資料館もありました。
そろそろ日も暮れ始めて来ました。宿に帰ることにしました。

翌日は、今回の旅のもう1つの楽しみの「重伝建群・吹屋地区」に行きます。

ご訪問ありがとうございます
本日都合によりコメント欄は閉じさせて戴きます。

2015年1月18日 (日)

中国山地の町・備中高梁市へ(その1)備中松山城

 以前からの念願だった、備中 高梁(たかはし)市へ行きました(昨年の11月29日~30日)。
 今回の旅の目的は、2つあり、1つは、雲上の山城・備中松山城を見ること。
そして重伝建群地区でべんがらの町・吹屋地区を見ることでした。
 ついでに倉敷の町にも行きました。

 先ず、「備中松山城」にアタックです。
ですが、標高が430mの山城であり、自然石の石段を上下しないと行けないところなので、已む無く近くの山にある展望台からの遠望で我慢することにしました。JR伯備線・備中高梁駅から、観光タクシーで約30分掛りました。

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高梁駅の跨線橋の上から見たお城ですが、これでは判りませんね。
もっと近くで見たい気持ちが逸ります。
お城がある山は、「臥牛山」と言います。初めは「松山」と言っていたそうですが、江戸時代に変わったそうです。

 そこで観光タクシーの利用となった次第です。

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近くの山の展望台から見た「備中松山城」です。
これ程の高さにある山城で、天守が残っているのは、ここだけだそうです。

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 高梁駅前の観光案内所にあったポスターの写真を、利用させて戴きました。

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 展望台から見た、高梁市内で「備中松山城」の城下町です。
流れる川は、「高梁川」です。

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 JR備中高梁駅の待合室に掲示してあったポスターです。
日本三大山城を、紹介したものです。
ここ備中・松山城、大和・高取城、美濃・岩村城の3城です。
私は、岩村城だけ登っていません(近くまでは行きましたが)。


 「備中松山城」について

鎌倉時代の1240年に、ここ臥牛山大松山に、秋庭三郎重信が砦を築いたのが、備中松山城の歴史のはじまり。
その後、その時々の勢力により、多くの武家が城主であったり、在番を務めたりしている。
有名な人を挙げるならば、毛利輝元・小堀遠州・浅野内匠頭(在番)・板倉勝静(幕末の老中首座)など。
明治6年(1873)、廃城となる。



 

2014年12月27日 (土)

小豆島と姫路の旅-2(姫路城)その2

 昨日の続きです。
白く輝く姫路城「大天守」に感動しつつ、案内者の説明に耳を傾けながら、そしてポイントでは写真を撮りながら、城内を回っていました。

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「菱の門」です。城内に入る最初の大きな門です。でも大手門とは言いません。なぜ?(今はありませんが、ここへ来るまでにあったのかも?)
漆錺金具付き格子窓や華頭窓など、桃山時代の優雅で豪華な城門です。

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「西の丸」の外の石垣です。城域に入る前に見ることが出来ます。

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江戸時代の初期の「石垣の補強」部分です。出張っているところです。

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姫路城内の門には、「いろは」で名前が付けられています。
向こうに見える門は、「ぬの門」です。門扉は鉄板張りとなっています。
帽子を被った方が、ボランティアのガイドさんです。

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そそり立つ石垣の凄さです。忍者も侵入は不可能でしょう。

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中央に斜めに石垣の境線が見えると思いますが、右手が秀吉時代の石垣で、左手は輝政時代の石垣です。
石垣には、五輪塔や宝筐印塔、石灯篭なども使われているそうです。

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大天守の屋根のトップに取り付けられている「鯱」(しゃち)三代です。
左手が江戸時代のもの、真ん中が明治時代のもの、右手が昭和時代のものです。どれも口を真一文字に閉じています。左右とも「吽形」(うんぎょう)だそうです。

城内の一郭で、「官兵衛の歴史館」を開催中でした。

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官兵衛を始め、配下の武将達の甲冑などが展示されていました。

姫路城の工事は、来年3月まで掛かるそうで、一般公開はその後とのことでした。

姫路城の見学後は、近くにある官兵衛ゆかりの神社に参拝しました。

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播磨国総社の「射楯兵主神社」(いたてひょうず・じんじゃ)と言います。

戴いた資料によりますと、官兵衛とこのお社との関係について、次の様に書かれていました。

○天正8年(1580)に、羽柴秀吉から領地1万石を賜りました。
○これにより、父・職隆と旗のことを相談しました。
○その結果、上下を黒く、真ん中を白にし「中白の旗」を決めました。
○その旗をここに持ち込み、祈祷を行いました。
これが、黒田家が旗(軍旗)を立てた初めとされています。

「小豆島」から「姫路城」まで、長らくお付き合い戴きまして有難うございました。実のあった1泊の旅でした。

2014年12月26日 (金)

小豆島と姫路の旅-2(姫路城)その1

 小豆島からは行きと同じくフェリーに乗り、「姫路港」に到着。直ちに一路「姫路城」に向かいました。久し振りに見る「姫路城」でした。平成の大修理中ですが、「大天守」の外観は修理が完了していました。NHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」ゆかりの城(但し今の城ではない)と言うことで、城内の一郭で展示も遣っていました。官兵衛当時の遺跡も合わせて、ご紹介したいと思います。
 「姫路城」は、国宝であり、かつ世界文化遺産です。

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少し離れたところ(未だ姫路城の区域に入っていない場所)から見た「大天守」です。未だ工事中で、大きなクレーンが稼働中の様でした。

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城の区域内に入って、撮影ポイントとされているところから撮ったものです。
この場所が、団体さんの集合写真の撮影場所でもあります。

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入城口の「菱の門」から、城域内に入り撮ったものです。
世界遺産に登録された「姫路城」別名「白鷺城」その名の通り白く輝いて見えました。

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さらに奥まで入って撮ったものです。

姫路城の歴史(黒田官兵衛との関係から)について

元弘3年(1333)  赤松則村(円心)、姫山(ここ姫路城の場所)に縄張り
             (城の基礎造り)。小寺氏に守らせた。
貞和2年(1346)  赤松貞範、姫山に城を築く。
貞和5年(1349)  小寺頼季を姫路城に置く。
永正16年(1519) 小寺政隆が、その子・則職を姫路城に。
天文14年(1545) 黒田重隆、小寺氏の命により姫路城へ。
              その後、嫡男・職隆に守らせる。

天文15年(1546) 黒田孝高(官兵衛)、姫路城で生まれる。
永禄10年(1567) 官兵衛、光姫と結婚。
永禄11年(1568) 嫡男・長政、姫路城で生まれる。
天正5年(1577)  羽柴秀吉、播磨に侵攻。
天正8年(1580)  官兵衛、姫路城を秀吉に譲る。
              秀吉、官兵衛と浅野長政に、普請を命じ、姫路城の築城
              (大改修)を開始。
天正9年(1581)  三重の本格的な天守を持つ姫路城が完成。
慶長6年(1601)  池田輝政、姫路城の築城を始める。
慶長14年(1609) 五重六階地下一階の連立式天守完成。この城が現存の
              城。

 

2014年12月21日 (日)

小豆島と姫路の旅-2(島内~姫路)その2

 「寒霞渓」に向かう途中に見掛けた優しいお顔の「小豆島大観音」像です。幸せ観音とも呼ばれ、幸せを連れて来てくださるそうです。
 仏歯がお祀りしてあるそうです。

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 島内を回っていますと、山肌が露出しているところを、多く見掛けました。
 
「寒霞渓」でも見た様に、全島岩の塊の様な感じです。
 そのために、大坂城築城の際には、この島の石を切り出して大坂まで運んだそうです。島内には、2カ所(北地区と東地区)に「大坂城残石場」があります。残念ながら、その地を見ることは出来ませんでしたが・・・。

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現在も石を切り出している場所がありました。
島内の岩石は、花崗岩・安山岩・集塊岩などです。

 帰りの港も、行きと同じ「福田港」です。ここから再びフェリーに乗ります。

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400年前の廻船問屋をイメージして造られた、新しいフェリーターミナルです。

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これから乗船するフェリーが入って来ました。

 さようなら!小豆島よ です。

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フェリーは一路姫路港に向かって進んでいます。
約1時間40分の船旅です。行きと同じくお昼を食べます。

2014年12月20日 (土)

小豆島と姫路の旅-2(小豆島内)その1

前回の続きです。
 2日目
は、島内での名所の「寒霞渓」(かんかけい)を見物します。
 1300万年前の火山活動で誕生し、200万年の歳月が造り出した、不思議な渓谷美です。日本の3大渓谷美の1つだそうです。

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奇岩と紅葉との混在が美しいと言われていますが、ご覧の様に木々はまだ緑一杯です。表12景、裏8景とか言われていて、渓谷美をアッピールされていますが、私には良く判りませんでした。

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真ん中の大きな岩は、「層雲壇」(そううんだん)?。
下の方から見た方が迫力がある様に思いました。

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2人のお坊さんが、並んで修業中?(私の見た感じです)。

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ロープウェイの山頂駅の近くから見ました。
標高が600mまでの岩は集塊岩で、それ以上は安山岩とのこと。
こそうすると、の辺りの岩は皆 集塊岩ということになります。
集塊岩とは、灰や石が固まったものだそうです。

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寒霞渓の山頂からは、海が望めます。瀬戸内海です。

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その山頂の景色です。標高612mです。ここには、山頂駅の他売店やレストラン、展望所などがあります。
そして、ここには珍しいものもあります。それは「1億円トイレ」です。
左手のバス駐車場の先にあります。

20数年前に、当時の竹下首相が、各町に1億円を配ったことを、ご記憶でしょうか。その1億円で造られたトイレです。外観は円形をしていて、薄茶色の外観です。

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男子用トイレの内部の様子です。やはり違いますかね。

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手洗い場です。

平成2年7月に完成、浄化槽付きです。
冷房完備・ウォッシュトイレ・床暖房・女性用パウダーコーナー・母子コーナー
身障者用トイレなどがあるそうです。
今から20数年前のトイレとしては、画期的なトイレだったのでしょうね。


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