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平安京

2011年8月15日 (月)

神泉苑をご紹介します(その2)

 (その1)の続きです。
 祇園祭は無事に終わりましたが、その祇園祭の原点が、この「神泉苑」に有ります。ご興味がある方はこの記事の最後の方で詳しく説明しておりますのでご覧願います。
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 こちらは、北門です。御池通の1つ北の通り「押小路通」に面しています。
この神泉苑の境内には、右の看板の様に料理屋があります。

 北門を入って直ぐの池の様子です。

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池の傍を通って、境内の南に抜けますと、本堂の前に出ます。

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本尊は、聖観世音菩薩さまです。

 本堂の前には、「法成橋」(ほうじょうばし)と言う、赤い橋が架かっています。
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 願いを1つだけ胸に込めて、この橋を渡り向こうにある「善女龍王社」で祈願をすると、その願いが叶えられるそうです。
 もし何か願いがある方は、一度是非お越しください。

 またここには、日本中でここにしかないと言う「恵方社」があります。
神泉苑の歳徳神(としとくがみ)さまです。
 以前ここのご住職さんに聞いた話ですが、大晦日の夜にこのお社をお父上と二人でこっそりと、翌年の恵方に向きを変えられるそうです。
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 上がそのお社です。ご覧の通り小さなお社ですが、石壇の上面にはお社を毎年移動された時に付いた木の擦れた跡が、付いていました。

 この境内には、その他「弁財天」のお社や、「矢剣(やつるぎ)大明神」のお社などが建っています。

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 もう一度、南側から池をご覧頂きましょう。この部分だけを見ていますと、深山幽谷の観あり?ではないでしょうか。


 最後に「神泉苑」と「祇園祭」のお話です。
ご興味がある方は、ご覧願います。

 祇園祭は、疫神怨霊を鎮める祭礼である「御霊会」(ごりょうえ)が起源で、初めは祇園御霊会・祇園会と言っていました。

 貞観11(869)年に、全国的に疫病が流行した時、その退散を祈願して、長さ2丈(約6m)程の矛(ほこ)を、日本66カ国の数に因み66本を立てて、牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったのが始まりと言われています。6月14日には、都の男児や近郷の農民が神輿を担いで「神泉苑」に出向き、疫病退散の神事を行ったそうです。

 それに先立つ貞観5(863)年の5月に、この「神泉苑」で初めて、神泉苑御霊会が催され、無実の罪により非業の死を遂げた方々の怨霊を慰めることで、疫病を鎮めようとしました。この時は、霊前に花果が供えられ、苑の四門が開放され、読経をはじめ音楽や舞などが演じられたとのことです。

 以上の様に、「神泉苑」は歴史上いろいろな舞台となりましたが、中世以後は荒廃しました。慶長7(1602)年、神泉苑の泉を利用して、二条城の内堀が造られた時に、苑域は縮小されてしまいました。

 「神泉苑」は、今は静かな佇まいを持つ観光スポットです。
 交通至便です。JRさがの線二条駅下車、東に歩いて約10分。地下鉄東西線二条城前駅下車、西に歩いて約10分のところです。
お近くまで来られた時は是非・・・!!

2011年8月14日 (日)

神泉苑をご紹介します(その1)

 京都市内・二条城の南に「神泉苑」(しんせんえん)と言う、真言宗のお寺があります。
そんなに広い境内ではありませんが、歴史上いろいろな面で大変重要な事柄を持ったお寺です。
京都市内の中心部を、東西に貫く大きな道路に「御池通」(おいけどおり)と言うのがありますが、「御池」とはこの神泉苑の池から取られています。

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神泉苑の南側正面です。手前の道が「御池通」になります。

 その御池通ですが、この辺りは道幅は狭いです。この写真の奥が東になりますが、堀川通に出ると道幅は約3倍位になります。

 さて、この神泉苑は平安京が造られた時に、平安宮のごく近く、二条大路を隔てた南東に、苑池として建設されました。
 当初は、東西2町(約250m)・南北4町(約510m)、総面積約13万平方mもありました。

 京都盆地は、大昔は湖の底にありました。その湖底が隆起して盆地が出来ました。先日ご紹介しました「深泥池」も、その時に出来たものですが、この神泉苑も同様に出来た池を取り込んで造られたものです。

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現在の池の最も大きく見える所から、撮りました。
ほぼ南から北に向かっています。

 当時は、中島がある大池を中心に、周りにいくつかの建物が並んでいたそうです。
 ここは禁苑とされ、一般の人達は入れませんでした。

延暦18(799)年に、桓武天皇が初めて行幸され、その後歴代の天皇行幸の場となっていたそうです。詩歌管弦や遊猟・魚釣り、さらには舟遊びなどが行われていた様です。
平成3(1991)年の、京都市営地下鉄東西線建設に伴う発掘調査により、神泉苑の東西の長さが判明し、船着場などの様子が出土しました。出土品は、地下鉄東西線の二条城前駅のロビーに展示されています。

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 これは、船着場の足場板だそうです。


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 瓦類も多数出土したようです。
「神泉苑」の銘がある瓦も出ています。
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 二条城の堀近くの押小路通の歩道に、東端と西端の標識が建てられています。当時の神泉苑は、今の神泉苑のほぼ10倍近くもあったそうです(逆に言えば今は10分の1になっていると言うことです)。
二条城の建設の際に、多くが壊されてしまったと聞きました。
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 二条城のお堀傍に立てられている、「神泉苑・東端線」の標識です。
向こうに見えるのが、二条城の石垣です。

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 「西端線」の標識は、二条城の西南櫓の近くに立てられています。
この2本の標識の間隔が、約250mと言うことになります。

 天長元(824)年に、天下に干害が続いたために、東寺の空海と西寺の守敏が雨乞いの法力を競い、空海が神泉苑に善女竜王を勧請して、雨を降らせたと言います。その祠があります。その縁で、このお寺が東寺真言宗の寺院になったと言います。
 記録上では、貞観17(875)年に、ここで初めて雨乞いを行ったと言う事です。

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 「善女竜王社」の前では、丁度比叡山の千日回峰を成し遂げられた「阿闍梨」(あじゃり)さんが、お祈りされていました。座っておられる方です。
 これは、京都市内の各社寺を強行軍でお参りされる途中の1場面です。
 「阿闍梨」さんに、数珠で頭を撫でてもらうと、ご利益があるのです。
私も数年前に、北野天満宮で、撫でてもらったことがあります。

 その後も、神泉苑では厄除け・除災・雨乞いなどの霊場として、大いに利用されていたそうです。
 次回は、祇園祭の原点となった神泉苑での「御霊会」のことを、ご紹介します。

 

2011年8月13日 (土)

平安京の中枢部・平安宮を訪ねる

 平安京の中で、その中枢部となるのが、今回ご紹介します「平安宮」(へいあんきゅう)です。「大内裏」(だいだいり)とも言います。
 今までupしたカテゴリー「平安京」と併せてご覧頂きますと、よくお判り頂けるかと思います。

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  以前に、平安京の全体像の模式図をご紹介しましたが、その中で図の上部(方角としては北)にあったのが、上の図「平安宮」です。
今回も図の上が北となります。
字が小さくて読み難いですが・・。
 
まず上の図について簡単にご説明します。(図の上でクリックして別画面でご覧下さい。解りやすいかと思います)
 赤字や赤線で示されているのが、平安宮内の諸建物です。
  例えば、図の下部中央にあるのが、平安宮の正門である「朱雀門」、
その上に「朝堂院」(正庁)、さらに「大極殿」(正殿)と続いています。

 青線で示されているのが、現在の道路や区画です。
  例えば、「朱雀門」から上にほぼ真っ直ぐに延びているのが、今の「千本通」、赤字の「大極殿」の下を左右に延びているのが、今の「丸太町通」、右下の大きな部分を取っているのが、今の「二条城」の一部です。
 水色は堀を表しています。
また下部中央から左にカーブしているのが、今の「JRさがの線=山陰線」です。

 さて、この「平安宮」内の各所で発掘調査が進んでいます。
殆んどが住宅地の地下に、その遺跡がある訳ですから、住宅が建て替えられる時などに、その発掘調査が行なわれるそうですから、中々大変です。
点から線へ、線から面へと拡がって行く事になります。

 調査の結果が、報告書にして私達も見る事が出来ます。
その結果が、発掘現場でも説明板に丁寧に表示されており、その現場に行けば誰でも見る事が出来ます。その幾つかを、昨年度に設置された、「源氏物語ゆかりの地」の説明板を主に、ご紹介させて頂きます。
これは、昨年の「源氏物語千年紀」を記念して、京都市内40か所に設置されたものです。

 まず「平安宮」を、南北だけでも距離を実感して頂きましょう。
京都市内にお住まいか、よくご存知の方でないとお判り難いと思いますが、今の「千本通」を中心にして、南の端=「朱雀門」(すざくもん)が、JRさがの線”二条駅”の近くにありました。
 そこから北に向かって、ひたすら進みます。
そして「一条通」まで。その距離が、「平安宮」の南北の範囲となります。
南北約1.4Kmの距離です。
東西は約1.2Kmありました。

 「朱雀門」を潜りますと、まず正面にあるのが「朝堂院」(ちょうどういん)です。そして、その中心が「大極殿」です。                              「朝堂院」は、今の国会議事堂に相当します。

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 「朝堂院」の中には、大極殿と14の建物が建っていました。
「昌福堂」(しょうふくどう)は、その中の1つです。
ここには政府高官の席が設けられていました。                             

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 この説明板の左手正面に、今まで時々登場していました「大極殿跡」の大きな石碑が建っています。
 「朝堂院」の左には、「豊楽院」(ぶらくいん)がありました。その中心が「豊楽殿」(ぶらくでん)です。「豊楽殿」は、「豊楽院」の正殿で、国家的な饗宴に使われていました。

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 こちらも、カテゴリー「平安京」の(その3・通算その5)で、ご紹介しております。

 「豊楽殿」の左上(北西)には、「造酒司」(みきのつかさ)とその倉庫群があります。その跡には「京都アスニー」などが建っています。
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ここは、内裏に納める酒・醴(あまざけ)・酢などを醸造していたところです。
こちらも、カテゴリー「平安京」の(その1)で、ご紹介しております。

 「大極殿」の右上(北東」には、天皇のお住まいなどの「内裏」(だいり)があります。この「内裏」の中にあった多くの建物跡が発掘などされています。
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 上の図の右下に赤字で「現在地」とあるのは、この「内裏」の「内郭回廊」跡のことです。下の写真が、それです。

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 「内裏」の中には、正殿である「紫宸殿」(ししんでん・公的行事の場)や「清涼殿」(せいりょうでん・日常居所の場)の他、後宮12殿舎があったそうです。
 一番上に挙げた模式図では、「大極殿」の右上(北東)にあります。

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 桓武天皇が、「平安京」に遷都されたのが、延暦13(794)年。
造都事業の一応の終了が、延暦24(805)年。
桓武天皇の崩御が、大同元(806)年。
貞観4(862)年頃になると、道幅約85mあった朱雀大路では昼間牛馬の放し飼いの場となり、夜間は盗賊の巣になったとか。

 一世紀を過ぎると、もともと「平安京」の西南部は低く湿地帯だった為に、右京は衰退が著しく、右京から脱出する人びとが増え始め、左京が北へ或いは東へ拡大して行きました。
 
 
 
  

 

2011年8月12日 (金)

今も生きている平安京の形

 今日のブログは京都以外の方には、如何なものかと思いつつ、ご紹介しています。
 
「京都の街は碁盤の目になっているので、判り易いですね」と、よく言われます。
 東西の通りと南北の通りの交点から、北へ行くのは「上る」(あがる)とか、南へ行くのは「下る」(さがる))。
東へ行くのは「東入る」、西へ行くのは「西入る」と言う様に。
さらに、その目的地点が「どちら側にあるか」まで言って貰えば完璧です。

 例えば、「大丸・京都店」の場合、四条通高倉西入る・北側(正確に言うと、高倉角に建物はありますが、正面玄関は前述の通りです)となります。

 
実はこの様になったのは、平安京が造られた時の都市計画によるものです。
中国の都の制度にならって「条坊制」(じょうぼうせい)を採り入れました。「条坊制」とは、要は縦軸と横軸の筋道のことです。
今時のアクセスの表示でも、この様な示し方をしますよね。
(以下の説明は、京都市歴史資料館発行の資料を参考にさせて頂きました)

 下は、その平安京の模式図です。上が北になります。
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 条坊制が施された範囲(すなわち、平安京)は、東西約4.5Km、南北約5.2Kmありました。
 真ん中に通っているのが「朱雀大路」、その入り口に「羅城門」、朱雀大路の突き当たりに「平安宮」、その入り口に「朱雀門」があります。


 さて、「条」は東西列に9つあり、「坊」は左京・右京それぞれに4つずつあります。
1つの坊は、約550m四方あって、東西・南北に走る大路に囲まれています。

 上の模式図の中に、少し字が小さくて読み難いかと思いますが、各坊に中国風の名前が付けられていました。

 左京を北から書きますと、次の通りです。
○北辺坊○桃花坊○銅駝坊(どうだぼう)○教業坊(きょうぎょうぼう)
○永昌坊

○宣風坊○淳風坊○安寧坊(あんねいぼう)○崇仁坊(すうじんぼう)
○陶化坊


 実は、その名前が今も京都市内の学校の名前として生きているのです。
明治になってからの事と思います。
 その中の幾つかを訪ねて見ました。左京の北の方から歩きました。


(1)銅駝坊(どうだぼう)~銅駝美術工芸高等学校
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 河原町丸太町から、東南の方向にあります。
校内の一角に、次の駒札が立っていました。
ご興味がある方は、ご覧ください。
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文中にあるドイツ人ワグネルの顕彰碑は、岡崎の「みやこめっせ」の東隣に建っています。また、島津製作所の創業者・島津源蔵の創業地が、ここの近くにあり、今は資料館になっています。
近くには、明治の元勲・木戸孝充(桂 小五郎)の邸跡があります。

(2)教業坊(きょうぎょうぼう)~元・教業小学校
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 標札は外されていてありませんが、卒業生の手作りの校歌のパネルがありました。
一番に「平安京のまん中に 教えの業の名を負って」とあります。
 場所は、大宮通御池下る西側です。
今は、旧学区のコミニティセンターになっています。


(3)淳風坊(じゅんぷうぼう)~淳風小学校Img_4712
 場所は、大宮通花屋町上る・東側(大宮通に面しています)。
 この南側には、真宗本願寺派(西本願寺)の大谷門主のお宅や、龍谷大学大宮学舎と図書館などが並んでいます。

(4)安寧坊(あんねいぼう)~元・安寧小学校
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 場所は、堀川通塩小路上る・西側にあります。
 ここから南に少し行ったところに、幕末に新撰組の最後の屯所であった「不動堂村屯所」跡の碑があります(リーガロイヤルホテル前)。

(5)崇仁坊(すうじんぼう)~崇仁小学校
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 場所は、河原町塩小路の東南にあります。付近にはコミニテイセンターなどの施設が整備されています。


(6)陶化坊(とうかぼう)~陶化中学校
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 校門を入った所に、下の様な駒札が立っていました。
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 学校名の由来や、この場所の歴史、校章と校訓などが書かれています。
場所は、東九条で市バスの九条車庫の東隣です。

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 左の建物は、健康づくりセンターの「京都テルサ」です。

 以上の他に、右京の六条にある「光徳坊」の名前の、光徳小学校があります。

以下は、ご興味がある方は、ご覧ください。
 一番上の模式図は、どうしてこのような図が画けるのでしょうか。
それは、「平安京指図(さしず・図面)」が残っているからです。
摂関家の近衛家と九条家に伝えられているもので、ともに鎌倉期の写しですが、手本とされたものは平安期の指図であったと考えられるそうです。
 
尚、過去の平安京の記事はカテゴリー「平安京」をご覧ください。

2011年8月 4日 (木)

平安京の史跡を訪ねる (その3)

 今回は、朱雀大路(すざくおうじ)を一気に北上し、「平安宮」(へいあんきゅう)に至ります。
 「平安宮」と言うのは、平安京の言わば心臓部に当たるところで、天皇のお住まいや、政治の中枢部分などがありました。
 平安宮の大きさは、東西が約960m・南北が約1200mありました。
位置としては、朱雀大路の突き当たりにあり、平安宮の北辺と平安京の北辺は一致しています。そこにある大路は、「一条大路」です。

 平安宮には、14の門がありました。その中で、中心となるのが、「朱雀門」で、朱雀大路の突き当たりに建っていました。その跡を示す石碑が、JRさがの線の二条駅東口から少し北に行ったところ(東側)にあります。

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    ↑ (此附近平安京大内裏朱雀門址)

 何故この様なことが判るのかと言うことですが、
(1)平安時代末期に作られたと思われる平安京の地図が残っていること。
(2)今も市街地の地表下0.5~2mには、その遺跡が眠っていること。
(3)京都市が積極的に、埋蔵文化財の発掘を行っていること。
などが挙げられます。

 さて、朱雀門をくぐりますと「朝堂院」(ちょうどういん)と言って、平安宮の中心に位置し、天皇の即位式など国家的行事の場です。「朝堂院」の北には「大極殿」(だいごくでん)がありました。

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 上の写真は、平安神宮の正門です。                                 平安神宮は、明治28年に平安遷都1100年を記念して創建された、京都市の総氏神さまです。桓武天皇と孝明天皇をお祀りしています。
 そして建物は、平安京の政庁である朝堂院をモデルにし、約8分の5に縮小して造られました。
 その朝堂院の入り口であった「応天門」を、↑ 平安神宮の正門として復元して造られました。
また、朝堂院の中心が、「大極殿」ですが、それをモデルとして、平安神宮の外拝殿が復元して造られました。下の写真が、その外拝殿です。

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 突然ですが、平安時代のお話です。その頃の流行り歌に「口遊」(くちずさみ)と言う書物があります。その中に、日本国中の高い建物を挙げています。
「雲太(うんた)」、「和二(わに)」、「京三(きょうさん)」と言うものです。
雲太は出雲大社、和二は大和の東大寺大仏殿、京三は京の大極殿のことです。それぞれの高さが、出雲大社が約50m、大仏殿が約45m、大極殿は約40mはあったと思われます。平安神宮の外拝殿は17mありますから、その2倍以上あった訳です。
驚くべき巨大な建物であったかが想像できます。
 その大極殿跡の石碑については、「平安京 その1」でご紹介しました(興味の有る方は「カテゴリーの平安京」を)。

 「朝堂院」の西隣には、もう1つ大切な場所「豊楽院」(ぶらくいん)がありました。その正殿として、「豊楽殿」があります。ここでは、大嘗会(だいじょうえ)など国家的饗宴が行われました。「豊楽殿」の規模は、発掘調査によって、東西46m・南北23mあることが確定されています。その20分の1の復元模型が、京都アスニーの1階「平安京創生館」に置かれています。
同館のご好意により、その模型を撮影させて頂きました。
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 屋根の棟の両端に付けられていた「鴟尾」(しび)の復元模型です。
 高さは 1.5mもあったそうです。
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 この様な「豊楽殿」は、どこに建てられていたか、発掘調査で判っています。
その場所は、京都アスニー(丸太町通七本松西)の近くで、その東南方向にあります。
 道を挟んで南と北にあります。まず南部分の方です。
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       ↑ (史跡・平安宮豊楽殿跡)
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 北西から南東方向を見たところです。ほぼ全景です。

 北の部分です。こちらでは、豊楽殿の北にあった「清暑堂」(せいしょどう)と言う建物跡も発見されています。
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         ↑ (平安宮跡豊楽院跡)

 
 以上の記事には、京都アスニーが発行されている「平安京図会」を大いに参考にさせて頂きました。有難うございました。この「平安京図会」は、平安京史跡巡りには、大変便利です。
300円とお値段もお手頃です。是非お奨めします。

 平安京シリーズについては、カテゴリー[平安京]をご参考にして下さい。

2011年8月 3日 (水)

平安京の史跡を訪ねる (その2)

 今日は、前回ご紹介しました「羅城門」の両隣にある、「東寺」と「西寺」をご紹介しましょう。
 
桓武天皇は、平安遷都に際し、仏教勢力を排除するために、京域内に寺院を建てる事を認めなかったそうです。そして、国家管理の寺院として「東寺」と「西寺」の2カ寺を建てました。
 東寺は、その後空海に任せられ、真言密教の道場として栄えましたが、西寺は最後まで国家の法事を行う官寺でした為、律令体制の衰退と共に衰え、
1233年の火災で消滅後は再建されませんでした。

 
さて東寺ですが、真言宗の総本山で、山号を八幡山と号し、正しくは「教王護国寺」と言います。現在世界文化遺産に登録されています。
 この東寺は、平安京の当時を地上に残す数少ない史跡だ、と井上満郎・京都産業大学教授・京都市歴史資料館長が言っておられます。
 五重塔が有名です。私は、新幹線の車窓からこの五重塔が見えますと、京都に帰って来たなあと言う実感が湧きました。

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  九条通(九条大路)に面した、南大門と五重塔です。
 五重塔だけを見易くします。こちらも、九条通から見たものです。

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 この五重塔は、現在5代目で国宝です。総高約55mあり、現存する木造塔としては最高です。時々一層目の内部を一般公開されています。先日も拝観して来ました。

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 ↑ は南大門ですが、桃山時代の遺構で、重要文化財です。

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 校倉造の宝庫ですが、東寺の建物の中で最も古いものではないか、と聞きました。或いは、平安時代のものではないかと聞きました。

 毎月21日は、「弘法市」が開かれ、大勢の人々が参詣兼ねて遣って来ます。
 また、都七福神の1つで、「毘沙門天」がお祀りしてあります。
 「羅城門」楼上に安置されていたと伝える「兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてんぞう)」が、宝物殿にあります。

 つぎに、西寺の方ですが先に書きました様に、焼失後は再建されず、今はその跡地の大きな木の下に石碑が建ち、礎石が幾つか残っているだけです。

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 ここまでに見て頂きました様に、現在の東寺と西寺の差が余りにも大き過ぎますが、その理由は東寺の方は空海に与えられ真言密教の道場になり、また庶民の信仰の場となった為でしょう。空海は死後「弘法大師」の称号を賜り、庶民からは「お大師さん」として親しまれ、崇められました。
 今日、四国八十八か所観音霊場巡拝が盛んの様ですが、これも弘法大師の人気の結果かと思います。

 これからも、この平安京史跡巡りは続きます。凡その順序は南から北に向って進めて行く予定です。
明日は、「平安京の史跡を訪ねる その3」をご紹介します。
 
 

2011年8月 2日 (火)

平安京の史跡を訪ねる (その1)

「平安京 その2」で、平安京の基準点となったのが「船岡山」だと、ご紹介しましたが、それにもとずく都市設計が為されました。
 モデルとしては、唐の首都であった長安や洛陽を模倣したと言われています。
 下の写真は、平安遷都1200年記念の一つとして制作された「平安京復元模型」(20分の1)の図録を接写したものです。出来具合は良いとは言えませんが、大体お判り頂けるかと思い掲載しました。
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 手前が南です。真ん中を貫いている大路が「朱雀大路」です。
道幅は、85メートルあったと伝えられています。
 朱雀大路を北に伸びた先には、灰色に囲まれた部分の「平安宮」があります。
ここは、天皇のお住まいである「内裏」や政治の中心である「朝堂院」などがありました。
 朱雀大路の右の部分が、「左京」、左側は「右京」です。変だと思われるでしょう。右が左で、左が右なんて。それは、中国の習いです。
「天子南面す」、即ち天子は南を向いて座ります。
その位置から見て、右が「右京」であり、左が「左京」となるのです。
現在もそのまま続いて区制が決まっています。


 最も手前の東西の通りが「九条大路」で、今の九条通もほぼ同じところを通っています。その九条大路と朱雀大路との交点に「羅城門(らじょうもん)」がありました。
 黒澤 明監督の「羅生門」(らしょうもん)の舞台のモデルとなったところです。

 朱雀大路の北の、さらにその先に「
船岡山」があります(小さな赤丸のところ)。
 右の大きな川が「鴨川」、左の細い川が「桂川」です。
 このような都市設計で造られた平安京の、今の姿「京都市」を、北の上空から撮った航空写真は、下のとおりです。

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手前のU字形に見える小さな山が、「船岡山」です。ほぼ真ん中に走っている道路が「朱雀大路」、今の千本通です。
右の方に屈折しているところが、千本今出川で、朱雀大路はその手前の一条通(当時の一条大路)までです。
 左側の四角の緑は、二条城ですが、当時は勿論ありません。
有ったのは、「神泉苑」でした。
また、右の森は「北野天満宮」ですが、勿論こちらも当時はありません。

 「平安京の史跡巡り」の始めは、「羅城門」跡です。
 上に述べました様に南北の朱雀大路と、東西の九条大路との交点にありました。
 羅城門は、平安京の正門です。幅が約35.7m・高さが約12mもあったとのこと。
 門の左右に羅城(高い塀)がありましたが、中国の様に街をグルッと取り囲んではいなかったそうです。
980年に倒壊してからは再建はされなかったとのことです。
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この石碑の傍に建てられた説明板に、その旨書かれていました。

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 ↑の絵は、発掘調査の結果に基き描かれたものです。
左上は、屋根の上に置かれたであろう鬼瓦です。

 さて、朱雀大路ですが道幅が85mあったと言いましたが、その実感を味わうため、丁度いい場所があります。それは、五条大橋の上から見た「鴨川」の川幅です。橋の上から北を望んでいます。Img_2264
 この川幅が
朱雀大路が造られた時の道幅です。
 しかし、この道幅もやがて一部が畑になったりして、段々と狭くなって行きます。そのお話は後日とします。

2011年8月 1日 (月)

平安京をご案内します (その2)

 昨日の続きです。  
第2回目の平安京へのご案内は、平安京がどのように造られたのか、
初期の段階からご紹介して見たいと思っております。少々長い文章が続きますが、
お花を楽しみながら読み進めて頂ければ嬉しく思います。
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↑の写真は、ゲンカイツツジです。白色は珍しいとのことです。

 桓武天皇が、それまで都であった「長岡京」から、山背国(やましろのくに・今の京都市)の葛野郡(かどのぐん)に臣下を遣わされて、新しい都としても良いものか、調査をお命じになりました。その決め手として「地相」を占わされました。
「地相」は、人間で言えば「手相」とお考えください。

 その時の「地相」とは、「四神(ししん)相応之地」のことを言います。これは、中国の都を決める時の理想的な考え方に則ったものです。
 その「地相」は、東西南北の4つに神があり、地形にそれぞれにシンボルになるものが存在すると言うものです。

 具体的に言いますと、北は玄武(げんぶ)で大きな岩がある。南は朱雀(すざく)で大きな池(湖)。東は青竜(せいりゅう)で大きな川。西は白虎(びゃっこ)で大きな道の4カ所を言います。この4つの絵は、奈良の高松塚古墳やキトラ古墳の壁画で有名になりました。(↓の写真はフクジュソウです)Img_2757_2
 
北の大岩は船岡山、南の大池は巨椋池(おぐらいけ・干拓されて今はありません)、東の大川は鴨川、西の大道はは山陰道とされました。そして、この候補地は「吉」とされ、新しい都の建設が始まりました。

 京都盆地は、北には北山があり、東には東山があり、西には西山があって、南だけが開けています。そのほぼ中央に平安京が造られました。         もう少し狭い範囲で言いますと、東は吉田山、北は船岡山、西は双ケ丘の3方を囲まれたほぼ平地部分が、平安京のエリアです。
(↓の写真はカンザキアヤメ)
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 平安京の規模は、南北に約5.2Km東西に約4.5Kmの長方形です。
この長方形の中心に、南北に道幅85mの「朱雀大路」が貫いていました。

 この「朱雀大路」の基準は、上に述べました、北の大岩・船岡山とされています。早速、その船岡山を目指して歩きました。

 千本通を今出川通から北上します。船岡山は、たかだか100mちょっとの低い山ですので、ビルや住宅に遮られて山の全貌は見えません。

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↑千本今出川付近のビルから、北の方を見ました。遠くの山々は、雪しぐれに隠れていますが、近くに見える低い山が、船岡山です。                 山頂に登って見ました。山頂から南の方向を望みますが、近くの樹木や高いビルなどで、千本通(朱雀大路)は全く見えません。
 ↓ 南の方向を見ていますが、近くには山は見えません。地形は、南が開かれているからです。

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 山頂には、明治に設置された三角点があります。

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 船岡山周辺の自治会では、平安京の基準点だったことを町おこしに活用されています。
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付近に立っていた案内板から、船岡山の形を下に示しました。影が半分占めてしまいました。
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 船岡山の山頂から、周りを見渡して見ますと、東には比叡山と大文字山が見えますし、東北には「妙」と「法」の山が、北には「舟形」が、西には「左大文字」とその向こうに愛宕山も見えます。夏の五山の送り火のうち、5つの文字が見えます(見えないのは、遠くにある鳥居形のみです)。ここは、貴重なボイントであります。

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左寄りが比叡山、右寄りが大文字山です。

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↑低い山の左側が「妙」と、右側が「法」です。右手の高い山は、比叡山です。

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 ↑ほぼ真ん中に見えるのが、「舟形」です。

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 ↑手前の右側「左大文字」です。左寄りの遠くに見えるのが愛宕山です。
 この様に、山頂から見渡した景色は、当時は山の文字はありませんが、自然は変わっていない筈ですから、この山が都の決定の基準点に選ばれたことは頷けるのではないでしょうか。

 船岡山の東側には、織田信長・信忠を祀った「建勲神社」(けんくんじんじゃ又は たていさおじんじゃ)があります。明治になって建てられたものです。
聞くところによりますと、豊臣秀吉は東山連峰の第31峰の阿弥陀ケ峰中腹にお墓があり、家来の秀吉より高い所に祀るべしと言うことで、ここに神社が建てられたとか。

 それはさて置き、測量技術とてレベルの低かったであろう、この時代にどのようにして方向や位置などを決めたのでしょうか。当然渡来系の人々の協力があったことは、否定出来ないと思います。
(↓の写真はコブクザクラ)
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因みに、桓武天皇の母君は渡来人の高野新笠と言う方です。

 今回は、「船岡山」のみで終わってしまいましたが、つぎには平安京や平安宮の主な建物について、ご紹介する予定です。

(花の写真4枚は京都府立植物園で撮りました)

2011年7月31日 (日)

平安京をご案内します(その1)

 現在の京都市の原点とも言えるものは、ご存知のように桓武天皇が、延暦13年(西暦794年「啼くよ鶯、平安京」)に、それまでの都である長岡京から遷都されたことに拠ります。

 これからシリーズで「平安京」について、ご紹介したいと思いますが、
今回(その1)として、導入部分をご覧頂きます。
 先ず始めに丸太町通七本松西入るにある「京都アスニー」1階にある
「平安京創生館」にご案内します。


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 ここには、平安京の復元模型や平安宮及び周辺ゆかりの史跡、出土品などが展示してあります。
平安京の全体像を知る上に、大変勉強になります。

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 (上の写真は、平安京の1千分の1の復元模型です)

 これらが展示されている「京都アスニー」も平安宮内の「造酒司」跡で、
玄関前にその発掘跡が、下の写真のように表示されています。
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  次に、「京都アスニー」から東に200メートル程行った千本丸太町には平安京の中心地「平安宮」のさらに中心になる「大極殿」跡があります。
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 千本丸太町の交差点周辺には、平安宮・朝堂院(国家的儀式の場)などの表示や標識があちこちに設けられています。
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    (これは道路上に埋め込まれたものです)
 この様に、約1200年前に都が置かれた姿が、今も何らかの形で見られることは、大変興味深く勉強になります。

 

2011年7月27日 (水)

京都市内の平家ゆかりの地を巡る(その2)

 昨日の続きです。
京都市内の平家ゆかりの地を巡って歩いています。
今回は、当時武家に対抗して、公家の力を存分に発揮していた「後白河上皇・のちに法皇」のゆかりの地を巡ります。

 後白河上皇は、院政の拠点を「法住寺殿」に置きました。
そのゆかりの寺院が「法住寺」です。三十三間堂の東にあります。

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上の山門の右に並ぶのは「旧・御陵正門」です。
御陵とは、後白河天皇の御陵です。後程、ご紹介します。

 その三十三間堂は、正しくは「蓮華王院本堂」と言います。

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東側の長大な門と塀です。道を隔てて真向かいに
法住寺があります。

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塀の外側から見た本堂です。本堂の南側(約3分の1位)です。
この本堂は、後白河上皇の院政庁「法住寺殿」の一画に、平 清盛が造進したものです。如何に「法住寺殿」の領域が大きかったかが判ります。

 「法住寺」から少し離れた東北の地に、「新日吉神宮」(いまひえじんぐう)と言う神社があります。ここは、永暦元年(1160年)に、後白河法皇が法住寺殿に、比叡山東坂本の日吉山王七社(日吉大社)を勧請したのが始まりとされています。

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神宮の正面です。現在、ご祭神は、後白河法皇のほか、皇居守護神の山王七社を祀っています。酒造・医薬・縁結びの神として信仰を集めています。

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日吉さんのお使いと言いますと、お猿さんですね。
拝殿の前の左右に、相対して座っています。
やはり、阿形と吽形を成しています。

最後に、御陵です。

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「後白河天皇・法住寺陵」です。「法住寺」の横・後にあります。
後白河天皇のほか、後代の7人の親王さんのお墓もあります。

 平 清盛は、養和元年(1181年)61才で亡くなっています。
 後白河法皇は、建久3年(1192年)崩御されています。

 平家ゆかりの地巡りは、今回で終りますが、もしご興味がお有りの方は、次の2ヶ所の説明をご覧願います。

(1)三十三間堂について
 現在は、天台宗妙法院の管理になるお堂です。長寛2年(1164年)に、平清   盛が造進後、一度焼失しましたが、直ちに復興され、文永3年(1266年)に再建、その後4度の大修理を経て、750年間護持されています。

 「和様入母屋本瓦葺」で、南北に118mあり、お堂の正面の柱間が33あることから、「三十三間堂」と呼ばれています。

 堂内には、丈六の千手観音座像(国宝)を中心に1001体もの観音像(重文)が祀られています。

(2)今日吉神宮について
 当初は、智積院の南側に創建されましたが、元和元年(1615年)に、豊国神社の破毀とともに旧廟前に移され、更に明治30年(1897年)に今の地に移されました。

 社殿は応仁の乱の兵火で焼け、その後しばしば増改築され、現在の本殿は、天保6年(1835年)の改造によるものです。
 
 
古くから朝廷の崇敬が厚く、後白河上皇は108度御幸されていると言われています。数多くの天皇の遺物、宸筆を蔵しています。

 以上、2つは京都市が建てた駒札(説明板)より抜粋しました。

 

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