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地域 歴史

2015年3月23日 (月)

二条城 可憐な梅の花

 先日の梅便りによると5分咲きとのことでしたが、4月中旬の暖かい日が続き昨日は終日の雨でした。
20日は朝から晴天です。思い立って9時30分頃、二条城に到着です。
 最近の外国からのお客様は東南アジアの方が多いのですが、何故か京都御苑や二条城、特に二条城では姿を見かけることは少なく英語圏の方が多いように思われます。

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既に多くの方が写真を撮ったり、梅を愛でながら愉しんでおられます。

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お城の石垣や城壁など、出来るだけ二条城の一部を入れて撮りました。

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主人公はお堀です。

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少し散っている梅も有り、全体的にはやや遅かったようです。
枝垂れ梅の方が比較的綺麗なように思えました。

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木としては若いですが容姿端麗の枝垂れ梅です。

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これは梅とは違いますが、多くの方がカメラを構えたり背景にして撮られていました。
 二条城は桜が有名でこれから多くの種類の花が楽しめます。
 最近は夜は出かけませんが、数年前に訪れた桜のライトアップは幽玄の世界でした。
 この後京都御苑に桃の花の開花状況を見に行きました。






2015年3月13日 (金)

京都の魅惑的な地名(4)天使突抜町

 京都市内の地名の不思議さ・面白さを、高野 澄先生のお話を聴いて以来、実際にその場所に赴き、実感を味わっています。
 今回は、「天使突抜町」です。「突抜町」と言う地名は、市内のあちこちにもありますが、「天使」と付いているのは、ここだけです。
 一見した時、「天使突抜町」なんて、ふざけた名前だと思いますが、ちゃんと歴史があり、謂れもあるのです。

 先ず、その通りは、「西洞院通」の一筋西の通りで、北は仏光寺通から、南は木津屋橋通までの、全長約1.5Kmある短い通りです。
 正式には、東中筋通と言います。
 通りの誕生は、豊臣秀吉の京都改造によって出来た通りです。

 「天使」とは、この神社のことです。

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下京区西洞院通(手前の道)松原下ルにある「五条天神社」(正面)です。
昔は、ここを「天使の社」と呼ばれていたそうです。

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拝殿に近寄って見ました。周りを高いビルに囲まれています。
平安遷都の時に、弘法大師が大和宇陀の天神をこの地に勧請したと言う
古社です。
弁慶と牛若丸との戦いも、この場所だとも言われています。

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松原通に面した鳥居です。
右手の石碑には、「皇国医祖神五条天神宮」と刻まれています。
昔は医薬の神として、庶民の信仰を集めていたそうです。

豊臣秀吉の京都改造で、「五条天神社」の境内を突抜けて、新しい道が造られました。秀吉は新たに町中を突抜けて道を造り、住宅を増やして、税収を増やしました。

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西洞院通と油小路通との間をぶち抜いて、新しい道を造りました。
この通りが、「天使突抜通」です。北から南を見ています。
ご覧の通り、道幅の狭い道路です。そして、何の変哲も無い道路です。

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「天使突抜町」は、1丁目から五条通を越えて、4丁目まであります。

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五条通を少し上ったところから、北を見ています。
女性達が集まっておられるところは、鉄道の会?とか表示が見られたところです。

 始めに書きました様に、秀吉の京都改造により、多くの「突抜町」が出来ており、地図を見ていますと、幾つかの突抜町の文字が見られます。
 平安京を造った町並みの一角が、120m四方では、広過ぎて住み難くなり、また税収を上げるために、真ん中に道をぶち抜いて、多くの矩形の町を造りました。

ご訪問ありがとうございます
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2015年3月 7日 (土)

久し振りに通り庭ギャラリーへ

 久し振りに、丹波橋の「通り庭ギャラリー」へ行って来ました。
今回の展示は、企業物で日本の電器メーカーのものが主体でした。
 松下電器(現・パナソニック)をはじめ、東芝・日立・三菱など各社のものが展示されていました。

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「知る人ぞ知る」 ギャラリーの表側です。右手の入口から入ります。

 一番奥に、でんと置かれていたのは、これでした。

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今回の展示の目玉の1つかと思われます、木製キャビネットのナショナル・テレビ(型式T-1481)です。昭和32年1月7日付の「保証書」付きです。「保証書」も展示されていました。当時は、テレビは未だ高価でした。

ナショナル関係が続きます。

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手前はナショナル真空管のPR用風呂敷、右側の3体の人形は、パナカラーのキャラクター、真ん中はナショナル乾電池(セイコー時計用)、左側はナショナル洗濯機のミニチュアーなどです。

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懐かしい看板などもありました。右下の写真は、松下幸之助氏ではないでしょうか。「松下電気器具製作所」の名前も見られます。

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松下電器と三洋電機との創業時の歴史が判るホーロー看板ですね。
現在では、三洋は松下(パナソニック)の傘下に入っています。

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日立のトランジスターラジオです。

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こんなものもありました。キャラクターの「メル子ちゃん」の髪留めも三菱のマークになっています。

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もう1つの目玉は、これかと思います。
「東芝日曜劇場」(テレビドラマ)の出演者のサイン入り風呂敷です。
今は亡き方も含めて、懐かしいお名前が並んでいます。

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東芝製品なのに、何故「マツダ」なんだろうと不思議に思っていました。

 何時も感心して拝見していますが、よくぞこれだけのものを集められたものだと。ギャラリーのオーナーの収集力や情熱に脱帽です。

2015年3月 3日 (火)

京都の魅惑的な地名(3)塩竈町(本塩竈町)

 今回訪ねた場所は、「塩竈町」(しおかまちょう)と「本塩竈町」(ほんしおかまちょう)と、2つの地名があります。
 塩竈町は五条通に面していて、富小路通と高倉通の間の奥行の狭い範囲です。もっとも五条通は戦中に拡幅されたものですから、五条通も含まれるのかも知れません。
 本塩竈町は広大です。河原町通と五条通に囲まれたところで、大体は西は高倉通、南は六条通に拡がっています。
 その訳は、この地名の元になっている「源 融の別荘・河原院」の広大さによるものと思います。「河原院」は、平安京の中でもトップクラスの広さの邸宅だった様です。河原とは、鴨川です。「源 融」については、最後にご紹介します。

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この付近に「河原院」があったとされるところです。
見えている大木は榎です。「河原院」にあった森の名残だとか。
右側には「高瀬川」が流れています(当然当時には無かったものですが・・・)。
左側には「鴨川」があります。北から南を見ています。

近寄って見ました。

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榎の大木の根元には石碑がありました。「此附近 源融河原院址」とあります。この石碑がある場所は、本塩竈町の東端(と言うよりも違う地名)です。
「河原院」の広大さが、良く判ります。

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五条通の北側にある「塩竈町」の地名表示です。
塩竈町は、東から富小路通(もう少し東に広がっていますが)・柳馬場通・堺町通り・高倉通と幅広くにあります。但し奥行は狭いです。

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五条通に面した塩竈町の一部です。東から西方向を見ています。
右側に停まって入る車の真後ろに「ほっかほっか亭」(弁当屋)が見えますが、
そこは堺町通の角になります。

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「本塩竈町」の地名表示です。六条通は、本塩竈町の南の端になります。

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河原町通から、本塩竈町の一部を見ています。本塩竈町には10か寺以上のお寺が集まっています。そんな中で、画面に見える「市比売神社」(いちひめじんじゃ)は、女人を守ってくださる神様です。本塩竈町の真ん中辺りの通りにあります。

 最後に、幾つかのことについて、ご紹介させて戴きます。

 「源 融」について
 ○822~895年の人、嵯峨天皇の第8皇子で臣籍降下して、源姓を名乗りました。嵯峨源氏です。河原左大臣とも言われた。
 ○嵯峨にも別荘を持っていました。嵯峨釈迦堂(清凉寺)にお墓があります。
 ○こちら「河原院」内に、陸奥国松島海岸の塩竈浦を模した庭園を造りました。彼は塩竈浦を真似ただけでなく、庭園に海水を運ばせて海を造りました。
「河原院」は8町(約3万5千坪)もあったので、そんなものも造れたのでしょう。
 しかし、海水を運ぶのはさぞ大変なことだったと思います。尼ケ崎から運ばせたとか。ここで製塩をした様です。
 贅沢極まる貴族の我が儘ですね。
 ○融は「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルとも言われています。
 ○塩竈浦は、既に当時の貴族たちに良く知られており、憧れみたいなものもあった様です。九条兼実や在原業平などが歌に歌っています。
 ○「河原院」は、融の死後宇多法皇が受け継いだのですが、その後は荒れ果てて行きました。

 「塩竈町」と「本塩竈町」のこと
 ○初めに「塩竈町」を名乗ったところ、こちらこそ「塩竈」の本場なりと言うことで、「本塩竈町」を名乗ったと言う経緯があったとのことです。
 商品などで良くあるケースですが・・・。元祖・元・老舗など。

 
 「宮城県塩釜市」との交流について
 ○塩竈の縁で、京都市下京区(本塩竈町・塩竈町の所在区)との交流が、平成21年から相互に訪問する形で、交流が行われています。

「河原町通」の名前は、この「河原院」から生まれたとも言われています。

ご訪問ありがとうございます。
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2015年2月13日 (金)

「祝えや祝え 琳派で祝え」

 前回は京都文化博物館で開催されていた「琳派400年」の記念特別出品として、別館で椿昇氏作の巨大なオームをご紹介しましたが、
今回は地下街「ポルタ」に展示されていたタイトルにも有るように動きの有る愉しい絵をご覧ください。


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絵は見難いですが・・・

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これは有名な尾形光琳の「紅白梅図屏風」の様に見えますが、鳥が描かれているのが気になります・・・。
 京都府・京都市では2015年の一年間を通して、「琳派400年記念祭」
して「琳派」に関わる展覧会や寺院の特別公開、特別講座などが開催されます。
機会が有れば是非参加・見学したいと思っています。

2015年2月11日 (水)

巨大な鸚鵡(オウム)に出合う 京都文博にて

 今年は、「琳派400年」の記念の年です。
 本阿弥光悦が、徳川家康から京都・鷹ケ峯に土地を賜り、芸術村を開いてから400年目を迎えます。光悦を始め、俵屋宗達・尾形光琳らによって継承された「琳派」は、豊かな装飾性・デザイン性や大胆な構図、瑞々しい美意識を特徴としています。
 
 京都文化博物館では、琳派の伝統から、RIMPAの創造へ「新鋭選抜展」が開かれていました。
 そして、特別出品として、同館・別館では椿昇氏作の「鸚鵡図」が展示されています。それを見て来ました。
 モデルは、江戸時代中期の画家・伊藤若冲の「鸚鵡オウム図」(ボストン美術館所蔵)です。

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「新鋭選抜展」のポスターです。その絵は、巨大鸚鵡のデザインのためのものだそうです。

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滅多に上がれない別館の2階から見た、その実物です。
  巨大バルーンにしたアート作品、シャンデリアに被り気味!歴史的建物と相まって不思議空間です。

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頭部を中心に、アップしてみました。

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1階から見た様子です。
全長が約7メートル有り、
空気を送って膨らませている様です。

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横から見ています。

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背中部分です。素材は何か解りませんが、上手く表現されていますね。

作者の「椿 昇」氏について、ご紹介します。
 コンテンポラリー・アーティスト
 京都市立芸術大学美術専攻科修了。1993年のベネチア・ビエンナーレに出品。2001年の横浜トリエンナーレでは、巨大なバッタのバルーン「インセクト・ワールド・飛蝗(バッタ)」を発表。その他多くの作品の発表などに活躍されています。




2015年2月 6日 (金)

京都・大枝山周辺の遺跡を巡る

 
 京都市西京区の桂地区にある「大枝山」(おおえやま)周辺の遺跡を、「渡来文化」を調査・研究または関心のあるグルーブの皆さんと、巡って歩きました。
 ご案内戴いた方は、この遺跡の発掘・調査された研究者の方でした。多くの専門的なお話が聴けて、大変勉強になりました。

 先ず出発は、市バスの「桂坂中央」停留所でした。歩いて約10分程のところにある「大枝山古墳群」を見学しました。
 ここには、多くの「円墳」があり、その中の1つが移築されています。「横穴式石室」を持った古墳です。古墳の中にも入ることが出来ました。

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ここに移築された「14号墳」です。大枝山古墳群の中でも、残存状態が良かったそうです。忠実に石の1個1個を元通りに移して築かれた様です。
大きさも、古墳群の中でも大きい方だとか。
また、元あった位置が他の古墳とは少し離れた場所にもあったそうです。
この古墳群は、「秦氏」のものと考えられていますが、この14号墳は首長クラスのものではないかとのことでした。

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古墳の入口です。人が立って入れます。中は結構広かったです。
石棺が置かれていたであろう「玄室」の横幅は、3.2mもあります。

次に、古墳群のある場所に移動しました。

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15号墳の前です。説明されている方が、ここの発掘・調査をされた方です。
先の14号墳と向き合った場所です。大きさは、14号墳と変わらない大きさだとか。

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中の様子です。「玄室」=石棺が置かれていた場所にいます。
上は天井石、奥は奥壁などと呼ぶそうです。
ここも玄室の幅は 3.2mです。
石室内からは、土器類や鉄製品などが出土しています。

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15号墳の向いにある「16号墳」です。綺麗な土饅頭形をした円墳です。
右の方に進むと、ここの古墳群が全部見ることが出来ます。
ここには全部で 14基の円墳があります。
この一帯は、「桂坂古墳の森保存会」が、管理されています。
一帯は金網で囲まれていて、通常は閉門されています。春と秋の年2回、一般に公開されます。

古墳は、6世紀後半~7世紀初頭の古墳時代に築造されました。
発掘調査は、昭和55年~62年にかけて、3度行われました。

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古墳群の一部を上の道から眺めたところです。
右下も、向こう側も、左手も、全て古墳です。右にも、左にも古墳が拡がっています。谷間の斜面に拡がった形になっています。



古墳群から離れて、次の遺跡へ行きました。

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この辺りの産土神の「大枝神社」の境内にも、古墳がありました。
形が崩れていますが、円墳の様です。天井石の一部が露出していました。

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旧山陰道から急傾斜を上がったところには、「桓武天皇御母 高野新笠」の御陵がありました。桓武天皇の父・光仁天皇の夫人で、百済系の渡来系の方です。長岡京で崩御され、京の北方のこの地に葬られたとのことです。

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ここは、「大枝の関」跡です。上の祠は「関所の神」を祀ったものだそうです。
手前には、山陰道が通っています。

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山陰道の現在です。西から東を見ています。右手のお宅では「大枝の柿」を売っていましたので、買って帰りました。
右手の上には、国道9号線が通っています。両側から山が迫っているこの辺りには、丹波への道が集中しています。昔から日本海側に抜ける大切な個所でした。
最後に、ご案内戴いた方の意見として、明智光秀が「敵は本能寺にあり」と決断したのは、多分この辺りだろうと仰いました。中国へ羽柴秀吉を助けに行く道はここから右に向かわねばならない。ここから先に直進したら、京都市内に行くことが明確になってしまうからだそうです。

ご訪問ありがとうございます。
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2015年1月10日 (土)

京都・二条城のお正月(その2)

 前回の続きです。二条城内をのんびりと散策していますが、結構外国の方の姿も見られます。
 「二の丸御殿」前から、「二の丸庭園」に向かいました。

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「二の丸庭園」(特別名勝)の北半分位です。右の建物は、「二の丸御殿」の一部です。
この庭園は、古来からの造庭術にしたがい造られた書院造庭園で、小堀遠州の作と伝えられています。

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全体的に石が多く使われていますが、そんな中で特に、ここには石が集中しています。小さな滝も、見えます。

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「本丸」部分に向かいます。橋は内堀に架かる「東橋」、門は「本丸櫓門」です。

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「本丸御殿」です。御殿を取り囲んで「本丸庭園」が拡がっています。
「本丸」は、3代家光の命により増築されたものです。
本丸内には、五層の天守閣もありましたが焼失しました。
御殿も、その後焼失しましたが、明治26~27年(1893~94)に、京都御苑にあった旧桂宮御殿(1847年頃建築)を移築したものです。

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「本丸御殿」の正面玄関・車寄です。京都御所とは違った、武家の雰囲気を感じます。

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本丸から「西橋」に向かう途中です。石垣に囲まれた狭い道です。やはり城の堅固さを感じました。

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内堀の西側に架かる「西橋」の上から、南を見ています。
石垣の高くなったところが、「天守閣」跡です。天守閣は、焼失後は再建されませんでした。

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北側に広がる「清流園」です。真ん中に見えるのは、茶室「香雲亭」です。
「清流園」は、江戸初期の豪商・角倉了以の屋敷から、建物の一部と庭石約800個を譲り受け、これをもとに二条城に相応しい庭園を、昭和40年に造り上げられたものです。

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庭は、池泉回遊式の和風庭園部分と、芝生を主体とした洋風庭園部分とからなり、面積は約16,500平方mもあります。
写真は2枚とも、和風庭園部分ですが、洋風庭園部分は右手に大きく拡がっています。今は芝生も枯れ、木々は冬木立になっています。
「北大手門」は、「清流園」の東の端にあります。

 元日から開城されている「二条城」内を、清々しい気持ちで、ゆったりと散策させて戴きました。この後、京都市内は大雪に見舞われることになります。






2015年1月 9日 (金)

京都・二条城のお正月(その1)

 寒さ厳しい京都(午後から大雪になりました)の元日の午前中に、「二条城」を訪れました。「二条城」は例年4日からですが今年は元日から開城されていました。
 「二条城」は、ご存じのように、元離宮で国宝と重文、そして世界文化遺産登録のお城です。

 「東大手門」は、改修工事が始まっていたために、「北大手門」から入城しました。なんでも一般人がここから入城するのは、二条城開城以来初めてとのことです。

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今回の入城口の「北大手門」には、両側に門松が立てられていて、お正月気分を盛り上げていました。「北大手門」は、ご覧の様に頑丈な鉄鋼製の門です。

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「北大手門」を入ったところでは、「二条城」を造った徳川家康さんがお出迎えくださいました。
「二条城」は、家康さんが造り、3代家光さんが大きくし、その後14代家茂さんまで、どの将軍も来ていません。そして、最後の将軍・15代慶喜さんが、ここで大政奉還して、400年間の幕を閉じました。
 外堀の東側に沿った道には、代々の将軍の「二条城」に対する想いを、簡略に書いた立札が並んでいました。「忙しい」「金が無い」「体力が無い」などと、来なかった訳が書いてあります。

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「東大手門」から入った時に、正面にある立派な土塀です。右の大きな屋根は、「二の丸御殿」です。
「二条城」は、もう平和になろうと言う時に、平地に建てられたお城ですから、城としての防御性は殆ど無いと言われています。その必要性は無かったのでしょう。
ですから、この土塀は装飾性や威厳を保つためのものと言えます。
「北大手門」から入ると、この位置から土塀を見ることになります。

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さらに、その位置から振り返って見ると、こんな光景となります。
倉庫群です。どんなものを入れていたのでしょうか。

「二の丸御殿」の方に回って見ました。

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「二の丸御殿」の入口に当る「唐門」を、内側から見ています。
昨年修復された後、ご紹介したと思いますが、華麗な立派な御門です。

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「二の丸御殿」の玄関・車寄です。今日は中には入れません。
「二の丸御殿」は、ここから入って、遠侍・式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院と建物が「雁行」(雁が飛ぶ様な形)しています。

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釣鐘が2つ置かれています。「二の丸庭園」の入口ちかくです。
説明板によりますと、幕末の世上風雲急を告げる時、この釣鐘は二条城と北側にあった所司代とに置かれ、連絡を取るのに使われたそうです。
明治に入って、二条城に一時京都府が置かれた時も、非常時に備え使用されたそうです。
庭園巡りの続きは明日ご紹介します。

 

2014年12月15日 (月)

京都の魅惑的な地名を訪ねて(2)歌の中山町

 新シリーズの第2回目です。第1回から少し間隔が出来て仕舞いました。
 今回は、東山区にある「歌の中山町」です。東山連峰の第30峰・清閑寺山の麓にあります。地図を見ますと、「清閑寺 歌の中山町」とあり、殆どが山中です。そして「清閑寺」(せいかんじ)がある地名は、「清閑寺 山の内町」となっています。
 京阪京都交通バスに乗り、五条通の「清閑寺山の内町」で下車し、暫く坂道を登りますと、「清水寺」への道との分岐点に着きます。そこに石碑が建っています。「歌の中山 清閑寺」とありました。

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山の麓の寂しい小道の入口に、この石碑は立っていました。
緩やかな坂道を登って行くと、やがて「清閑寺」の山門の前に至ります。
手前の道を行きますと、「清水寺」に至ります。

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山門にも、この様な門表が掛っていました。「歌乃中山」が山号になっている様です。

山門をくぐって、境内に入らせて戴きます。

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入って直ぐに目に入ったのは、正面の本堂です。
山の中腹にありますので、そんなに広い境内ではありませんが、歴史的には有名な出来事があります。後程ご紹介しましょう。

境内の西寄りには、こんな石が祀られていました。「要石」と言います。

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何故「要石」なのか?それは↓の景色に関係があります。

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「要石」の近くから、西の方向を見た景色です。撮る位置が良くなかった
ために、歪に見えていますが、扇を開いた形に景色が見え、その要がお寺の境内にあると言うことです。
左手には、ちょっぴり京都タワ-の先端部が見えます。
向こうに見える山並みは、西山連峰です。

「清閑寺」を出て、坂道を下りますと、御陵が見えます。

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第79代・六条天皇の「清閑寺陵」と第80代・高倉天皇の「後清閑寺陵」の2つの御陵です。高倉天皇の御陵の傍には「小督局」(こごうのつぼね)の墓塔があるとのことです。何故かは後で。

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そして、「歌の中山町」ですが地図に依りますと、御陵の後ろから左手に拡がる一帯です。初めに書きました様に山中です。

 さて、ここからはご興味がある方は、ご覧くださいませ。
 ○「歌の中山」の由来 
 ○「歌の中山」はどこ?
 ○「清閑寺」のこと
 ○「清閑寺」にまつわる歴史的出来事
 などについて、ご紹介したいと思います。

 ○「歌の中山」とは、
   江戸時代の京都の名所案内記「都名所図会」に載っているそうですが、
       昔、清閑寺に真燕僧都と言う僧がいて、或る夕暮れ、門外に佇み行き交

 う人々を見ていると、髪かたちの美しい女性が一人で行くのを見て、
   たち
まち愛しい心が起った。言葉をかけるすべも無いので、
   「清水への道は何
れか」と問いかけたところ、その女性は、
     見るにだに まよふ心の はかなくて まことの道を いかでしるべき
   と言い捨て、姿をかき消してしまった。
   その女性は化人の類(仏とも?)で
あるとも言われ、その歌を詠んだ場所
   を「歌の中山」という。
  
   と記されています。

 ○「歌の中山」はどこ?
   江戸時代の京都の名所案内記「花洛名勝図会」が、一番判り易く書いて
   
いるとかです。それによりますと、「清水の滝の南より清閑寺までをいえる
   なり」と。私は実際にそこを歩いて見ました。寂しい山道でした。

 ○「清閑寺」のこと
   正式には「歌中山清閑寺」と称します。真言宗智山派に属します。
   開創は、延暦21年(802)、紹継法師によります。
   天台宗だった時期もありました。
   室町幕府の時代には、寺域も広く、東山山中に偉容を誇っていましたが、
   応仁の乱で戦火に遭い、荒廃しました。
   江戸初期に復興されましたが、往時の盛観には及ばず、明治維新後には
   寺領を失い、寺地の大部分が上地となり、著しく衰運に向かいました。
   昭和初期に境内整備が行われ、現在に至っています。

 ○高倉天皇と小督局との悲劇的ロマンス
   高倉天皇の寵愛を受けた小督局は、中宮・徳子の父である平清盛によっ
   
宮中から追い出され、ここ清閑寺で尼にさせられました。
   高倉天皇は寵愛する局への慕情やみがたく、深く心を痛められ、死後は 
  
 局がいる清閑寺に葬る様に遺言され、21歳で崩御され、ここに埋葬され
   ました。境内には、小督局を供養する宝篋印塔があります。

 ○もう1つの出来事は、幕末のこと。
   西郷隆盛と清水寺の住職であった月照上人とが、清閑寺の鐘楼の上に
   あった月照の住まいで勤皇の謀議を凝らしていましたが、幕府の知るとこ
   ろとなり、2人は薩摩に逃げ
した。そして、追い詰められ2人は海に身を投
   じ、月照は亡くなり、西郷は助けられました。 
   鐘楼の下には「大西郷月照王政復古謀議旧址碑」が立っています。

 

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