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2014年12月15日 (月)

京都の魅惑的な地名を訪ねて(2)歌の中山町

 新シリーズの第2回目です。第1回から少し間隔が出来て仕舞いました。
 今回は、東山区にある「歌の中山町」です。東山連峰の第30峰・清閑寺山の麓にあります。地図を見ますと、「清閑寺 歌の中山町」とあり、殆どが山中です。そして「清閑寺」(せいかんじ)がある地名は、「清閑寺 山の内町」となっています。
 京阪京都交通バスに乗り、五条通の「清閑寺山の内町」で下車し、暫く坂道を登りますと、「清水寺」への道との分岐点に着きます。そこに石碑が建っています。「歌の中山 清閑寺」とありました。

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山の麓の寂しい小道の入口に、この石碑は立っていました。
緩やかな坂道を登って行くと、やがて「清閑寺」の山門の前に至ります。
手前の道を行きますと、「清水寺」に至ります。

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山門にも、この様な門表が掛っていました。「歌乃中山」が山号になっている様です。

山門をくぐって、境内に入らせて戴きます。

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入って直ぐに目に入ったのは、正面の本堂です。
山の中腹にありますので、そんなに広い境内ではありませんが、歴史的には有名な出来事があります。後程ご紹介しましょう。

境内の西寄りには、こんな石が祀られていました。「要石」と言います。

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何故「要石」なのか?それは↓の景色に関係があります。

020a

「要石」の近くから、西の方向を見た景色です。撮る位置が良くなかった
ために、歪に見えていますが、扇を開いた形に景色が見え、その要がお寺の境内にあると言うことです。
左手には、ちょっぴり京都タワ-の先端部が見えます。
向こうに見える山並みは、西山連峰です。

「清閑寺」を出て、坂道を下りますと、御陵が見えます。

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第79代・六条天皇の「清閑寺陵」と第80代・高倉天皇の「後清閑寺陵」の2つの御陵です。高倉天皇の御陵の傍には「小督局」(こごうのつぼね)の墓塔があるとのことです。何故かは後で。

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そして、「歌の中山町」ですが地図に依りますと、御陵の後ろから左手に拡がる一帯です。初めに書きました様に山中です。

 さて、ここからはご興味がある方は、ご覧くださいませ。
 ○「歌の中山」の由来 
 ○「歌の中山」はどこ?
 ○「清閑寺」のこと
 ○「清閑寺」にまつわる歴史的出来事
 などについて、ご紹介したいと思います。

 ○「歌の中山」とは、
   江戸時代の京都の名所案内記「都名所図会」に載っているそうですが、
       昔、清閑寺に真燕僧都と言う僧がいて、或る夕暮れ、門外に佇み行き交

 う人々を見ていると、髪かたちの美しい女性が一人で行くのを見て、
   たち
まち愛しい心が起った。言葉をかけるすべも無いので、
   「清水への道は何
れか」と問いかけたところ、その女性は、
     見るにだに まよふ心の はかなくて まことの道を いかでしるべき
   と言い捨て、姿をかき消してしまった。
   その女性は化人の類(仏とも?)で
あるとも言われ、その歌を詠んだ場所
   を「歌の中山」という。
  
   と記されています。

 ○「歌の中山」はどこ?
   江戸時代の京都の名所案内記「花洛名勝図会」が、一番判り易く書いて
   
いるとかです。それによりますと、「清水の滝の南より清閑寺までをいえる
   なり」と。私は実際にそこを歩いて見ました。寂しい山道でした。

 ○「清閑寺」のこと
   正式には「歌中山清閑寺」と称します。真言宗智山派に属します。
   開創は、延暦21年(802)、紹継法師によります。
   天台宗だった時期もありました。
   室町幕府の時代には、寺域も広く、東山山中に偉容を誇っていましたが、
   応仁の乱で戦火に遭い、荒廃しました。
   江戸初期に復興されましたが、往時の盛観には及ばず、明治維新後には
   寺領を失い、寺地の大部分が上地となり、著しく衰運に向かいました。
   昭和初期に境内整備が行われ、現在に至っています。

 ○高倉天皇と小督局との悲劇的ロマンス
   高倉天皇の寵愛を受けた小督局は、中宮・徳子の父である平清盛によっ
   
宮中から追い出され、ここ清閑寺で尼にさせられました。
   高倉天皇は寵愛する局への慕情やみがたく、深く心を痛められ、死後は 
  
 局がいる清閑寺に葬る様に遺言され、21歳で崩御され、ここに埋葬され
   ました。境内には、小督局を供養する宝篋印塔があります。

 ○もう1つの出来事は、幕末のこと。
   西郷隆盛と清水寺の住職であった月照上人とが、清閑寺の鐘楼の上に
   あった月照の住まいで勤皇の謀議を凝らしていましたが、幕府の知るとこ
   ろとなり、2人は薩摩に逃げ
した。そして、追い詰められ2人は海に身を投
   じ、月照は亡くなり、西郷は助けられました。 
   鐘楼の下には「大西郷月照王政復古謀議旧址碑」が立っています。

 

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