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2014年11月 1日 (土)

京都の和風建築を巡る 島原-3

 前回の続きです。京都の旧花街・島原の揚屋の「角屋」に長居しております。
今回は、お座敷とお庭をご紹介します。
 (2階は公開されていませんので、1階の2つのお座敷です)

 先ず「網代の間」(あじろのま)です。

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「網代の間」の床の間、1階の表座敷です。

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部屋の名前の元になっている天井の様子です。
天井板を網代組にしてあります。網の目状に組んであります。

 次は「松の間」です。1階の奥座敷で、角屋の中で最も大きな部屋です。
43畳もあるそうです。

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その床の間です。流石に床の間も立派です。
そして、部屋の名前の元は、前に拡がるお庭にありますが、その前に襖を
ご覧戴きましょう。

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「金地桐に鳳凰図」で、筆は「岸 連山」(幕末の絵師)によるものです。
この「松の間」は、大正14年(1925)に焼失し、直ぐに建て替えられたそうです。従って、この間だけが重文指定にはなっていないそうです。

 では、お庭をご覧戴きます。

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庭一杯に「臥龍松」(がりゅうしょう)がその枝を伸ばしています。
この松は2代目だそうです。初代の松も左手にあります(↓でご紹介します)
右手に見える屋根は、茶室です。左手奥にも茶室があります。

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右手の茶室ですが、その後ろにも茅葺屋根の茶室が見えます。

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初代の「臥龍松」です。横に伸びた枝が、その姿を留めています。

041a

「松の間」付きのお手洗いです。

 なお、2階には7つの部屋がある様です。

 最後に、「島原」の語源や花街のこと、太夫のこと、角屋のことなど、戴いた資料からご紹介します。もしご興味があればご覧ください。

○島原の語源~この地の正式名称は「西新屋敷」と言います。
  京都の花街は、豊臣秀吉の時代には、柳馬場二条に「柳町」として開設され、その後御所に近いと言うことで、六条柳町(東本願寺の北)に移転、さらに朱雀野(今の島原)に移転させられたそうです。その移転が急だったため、当時九州島原の乱に似ているとして「島原」と通称されたのが始まりとか。

○島原の接客の形~島原は、遊宴の場である「揚屋」と、揚屋に太夫や芸妓
  を派遣する「置屋」からなる分業制をとっていました。

「揚屋」は江戸吉原にもあったそうですが、宝暦年間に完全消滅し、京の島原と大坂の新町では、拡張し大型宴会場化していったそうです。

○太夫とは~島原の傾城(けいせい・遊宴のもてなしを公認された女性)の中
  でも最高位の女性。太夫は単に美しいだけではなく、茶・花・詩歌・俳諧・舞踊・文学などあらゆる教養を身につけていました。吉野太夫や八千代太夫などが有名です。

○角屋~島原が出来たのは寛永18年(1641)で、角屋は島原開設当初から
  存在する揚屋です。現在の規模になったのは、天明7年(1787)の増築後だそうです。幕末には、勤皇の志士や新撰組が出入りしていたとか。
新撰組が付けたと言う刀傷が入口の柱にありました。
 明治維新後は、大型宴会の需要がなくなるとともに、足場の悪さもあって、島原の町全体が衰微しました。それ以降は祇園が花街の主役に取って代わっていきました。 
 

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コメント

古都人さん
 お早うございます
今朝はカルチャーショックを受けました
立派なお座敷やお庭もそうですが
何よりも島原と角屋、特に大夫さんです
今までのイメージは何となく吉原の遊郭
花魁のイメージが強かったのですが
全く私の思いが間違っていたことです
島原の歴史
格式の高い角屋
そしてあらゆる教養を身に付けている大夫さん
 島原をゆっくり歴史を感じながら散策して機会が有れば是非角屋の見学もしたいです
古都人さんらしい丁寧な説明でご紹介
島原が以前にもまして好きな街になりました
ご紹介ありがとうございます

古都人さん
おはようございます
何とお座敷の立派なこと
煌びやかな中にもしっとりした佇まい
風格も有りますね
「網代の間」も「松の間」も至る所に贅沢な工夫がなされていて
焼失して建て替えられた松の間だけは重文指定されていないとの事ですが残念ですね
「臥龍松」の見事な事
初代の「臥龍松」は立派な松だったのですね↓の丁寧な説明ありがとうございます

今まで何となくベールに包まれていた
島原も角屋そして太夫もよく解りました
特に大夫の女性としても立派な方に認識を改めました
京都に住んでいる者として特に今回の島原のご紹介は嬉しく意味が有ったとも思いました
ありがとうございます

 お早うございます
お座敷の立派なこと
風格も有りますね
「網代の間」も「松の間」も贅を尽くしてあって流石に角屋さんですね
「松の間」は焼失したそうですがこんに見事に建て替えられて財力も窺い知れますね
実際にご覧になった古都人さんの感動が判るようです
お庭に配置された松の木もお茶室も唯々感心して拝見しました
松の間付きのお手洗いがこれがですか?
まるで廊下続きの離れの一室のようですね

最後の説明
古都人さんらしく丁寧な説明ありがとうございます
ジックリ拝読しました
島原のことも太夫の事、そして角屋の事も良く解りました
特に大夫があらゆる教養を身に着けて居られた事が判って本当に好かったです
機会が有れば是非角屋さんも拝見したいですし大夫さんにもお会いしたいです

taekoさんへ
お早うございます
お言葉嬉しく受け止めさせて戴きました
有難うございます
そうですね 島原はその性格からどうしても
色眼鏡で見られ勝ちですが当時では一つの文化サロン
の様な部分があった様です
幕末の物騒な時代ではそんなことは出来なくなったかも
知れませんが社交場的な面はあっただろうと思います
幕末では勤皇派 佐幕派 入り乱れて出入りしていた様ですが
ここでは斬り合いになっていない様でやはり角屋の風格による
せいかも知れませんね

植村さんへ
お早うございます
そうですね 江戸時代には文化人の集まりも
あった様ですのである程度の財力の援助みたいな
こともあったのではないかと想像します
ここでの費用の面は全く判りませんが
やはりお金持ちでないと出入りは出来なかったと思います
財力の蓄積もあったのでしょう
焼失しても直ぐに再建出来るのはそのせいでしょう
今この建物等の維持管理は当時よりもしんどいかも知れませんね

おはようございます

島原という語源がよくわかりました。
やはり当時の大夫の事も確かにその当時の
文化のありようがわかるところなんですね。

ただこの財力には本当に驚きです。
ゆっくり古都人さんの説明を拝見しました。

こんばんは
「島原」の名称の由来がわかりました。
そういうことだったんですね。
場所を転々とさせられ
花街の方たちは大迷惑だったことでしょうね。
それでもこの風格を作り上げ
維持していったのがすごいことだと思います。
華やかな襖絵も素晴らしい。
格式ある花街の雰囲気が想像されます。
庶民のあこがれだったのでしょうね。

古都人さん  こんばんは
「角屋」の佇まいの素晴らしさに
感動しながら拝見して、
最後のご説明で学び再度見直しています。
私の知る僅かな花街の知識と
あまりにも違い勉強に成りました。
「網代の間」風格を感じる床の間で
その色彩と床柱の輝き
網代組の天井板は品良くて、贅を尽くした
拘りを感じます。
「松の間」の立派な床の間と「金地桐に鳳凰図」
43畳の松の間での華やかな宴はどの様な様子か?
歴史的なご説明で、思い描いています。
庭一杯に枝を伸ばしている素晴らしい「臥龍松」と茶室
そしてお手洗いが凄く、
角屋さんの繁栄ぶりが窺えます。
焼失後直ぐに建て替えられたとの事で、
私も財力は凄いと思います。
維持管理は大変かと思いますが、長く残して欲しいです。
素晴らしいご紹介、ありがとうございました。

島原の歴史がよくわかりました。
豪華な世界だったのですね。
襖絵や臥龍松がすばらしいですね~。
金沢のひがし茶屋町の志摩という
お茶屋さんの天井も網代天井でした。
京都の建築様式をそのまま
真似たのでしょうね。

今も昔も、美女は顔だけでなく、
教養も要求されていたのですね。
江戸吉原の花魁もやはり小さなころから
習い事をして、一流を目指したと
聞いたことがあります。

古都人さん
こんばんは。
島原は見学したことがないのですよ。
素晴らしいお家ですね、天井も
変わっていますし、あちこちが
工夫されてていいですね。
金地桐に鳳凰図も素晴らしい~
豪華で見ごたえがありますね。
花魁は教養もあり話術も秀でて
いたのでしょうね。
兼ね備えた人が居られたようですね。
素敵な所のご紹介嬉しいです。
いつもありがとうございます。

hirugaoさんへ
こんばんわ
そうですね この財力の源はどこにあるのでしょうね
結構お金持ちの贔屓のお客が多かったのでしょうね
実際お金持ちでないと行けるところではないですものね
ただ幕末の勤皇・佐幕の連中はどうして行けたのか
それぞれにパトロンがいたのかも知れませんね

まさみさんへ
こんばんわ
そうですね こんな単純な語源の「島原」の名が
定着したものだと感心しています
この「島原」は花街と言っても文化的な面で
格式が高い場所だった様です
そこに幕末時に殺伐な武士達が出入り出来たのが
不思議な感じがします
相当お金を持っていたのでしょうね

すみれさんへ
こんばんわ
そうですね 角屋の底力を知った思いがします
この界隈では盟主的な存在だった様で
結構儲けていたことでしょう
財力の凄さを感じます
2階にも幾つかの部屋がある様で結構繁盛していた
のでしょう その辺のことは見学時には説明もありませんし
聞き難いことでもありますね
現在ではきちんと保存会を立ち上げ守っておられますので
厳しい中でも上手く運営がされていると思います

やっこさんへ
こんばんわ
そうですね 花街の建築にはどこも贅を尽くしたものに
なっていますね
金沢も小京都と言われるだけあって凝った建築が
行われていることでしょう
そうですね 大夫と呼ばれる人達は凄い訓練を
されている様ですね
全てのことを身に付けなければならないから
大変です
それに耐えてこそ大夫の名前が与えられるのですから

ムームーさんへ
こんばんわ
そうですか 角屋は期間限定で一般公開されていますよ
一度ご覧になってくださいませ
そうですね 一流のお客をもてなす配慮がされている様に
思います
江戸時代には文化サロンでもあった様です
それだけの雰囲気づくりが必要だったのでしょう

こんばんは happy01
お座敷、床の間や襖、そして庭・・・ため息が出そうです。
当時はそれなりの身分の人しかここへは入れなかったことでしょうね。
襖の鳳凰の絵の素晴らしいこと!
色鮮やかで立派な鳳凰が2羽!目が釘づけになりそうです。
庭の臥龍松も名前通りの佇まい!
茶室も屋根の形が独特で、全体のデザインも当時としてはかなりハイセンスなものだったことでしょう。
これほどの建物や庭を所有していた『角屋』、素晴らしい隆盛を誇っていたのですね。

島原の語源や花街、太夫の説明、ありがとうございました。
ずいぶん前ですが『伊勢戦国時代村』の芝居小屋で吉野太夫の芝居を見たことがあります。

慕辺未行さんへ
お早うございます
そうですね 戴いたパンフレットを読み返して見ますと
やはり遊宴場として大いに繁盛していた様です
特に大型遊宴がしばしば行われていた様です
そのための場所として建物や座敷が設けられたと思います
また文芸 特に俳諧が活況だったとか
幕末には勤皇倒幕の志士や新撰組も出入りしたとか
よく斬り合いなどが起らなかったのが不思議です

古都人さん おはようございます

京都島原「角屋」さん 当時は身分のある人しか入れない場所です。
今は公開をされ見学ができ、ご紹介で知る機会を得ました。

それにしても豪華な作りですね。網代の間の天茸、床の間。襖の絵と
特に襖の絵は見事で美しいですね。其処から見えるお庭の臥龍松
いっぱいに枝を広げて立派ですね。
茶室もあって日本古代の文化を見ているようです。

京都島原「角屋」のこと、知らない世界を知ることができました
とても興味深く奥深い趣を感じました。ご紹介ありがとうございました。

sasayuriさんへ
こんにちわ
そうでしょうね 先ずお金持ちでないと入れないですね
一限さんはダメですね
結構高く付くのではないかと想像します
その辺の情報は全くないですね
それと江戸時代には文化的センスがないと
お付き合いが出来なかったでしょうね
そう考えて行きますと高い敷居だったことでしょう

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