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2014年8月22日 (金)

京都南東部の名刹を訪ねて-1 隨心院

 京都市の南東部・山科区から伏見区にかけて、幾つかの名刹を訪ねて歩きました。歴史が好きな人々の集まりの或る会の催しに参加しました。

 その切り口は「奈良街道」です。東海道は山科の追分の分岐点から南に進み、大宅一里塚を経て、小野から醍醐に到る道を、その様に呼ばれています。

 この街道は、伏見・淀・枚方・大坂に至る東海道57次でもあり、江戸時代には参勤交代の諸大名が通った歴史的に重要な道でもありました。
 江戸時代には、諸大名達は京の町には入れなかったのです。幕府が大名と朝廷との接触を嫌ったためと言われています。

 京都市営地下鉄・東西線の「小野駅」からスタートしました。

 先ず最初に訪れたのは、「隨心院」(ずいしんいん)です。

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山門です。門をくぐつて中へ進みます。
突き当りを右折したところにあるのが、この門でした。

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「勅使門」でしょうか? 門の構えから違います。
真言宗善通寺派の大本山です。小野門跡とも言います。
山号は牛皮山(変わった山号でしょう・その訳は最後にご紹介します)。
ご本尊は、如意輪観音さんです。

その向いには「梅苑」があります。

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毎年、梅だよりには必ず登場する「梅苑」です。

 さて、「隨心院」一帯は古来小野一族が住んでいたところで、そんなことから「小野小町」ゆかりのお寺でもあります。
 境内には、小町ゆかりの遺跡があります。

 先ず、小町が使ったと言う「化粧井戸」です。

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もう水は湧いていない様でした。小町がこの小野の里に住んでいたのは30才頃とか。毎日この井戸の水を使っていたことでしょう。

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「小町塚」と言われています。小町の墓や供養塔はあちこちにあります。

 花の色はうつりにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに

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「文塚」です。深草の少将の百夜通いのラブレターを始め、小町に寄せられた多くの文を埋めた塚です。

 最後に、山号「牛皮山」の謂われについて

 弘法大師の8代目の正統である仁海僧正が、一条天皇の御代に、ここに一寺を建て、牛皮山曼荼羅寺と称しました。その由来は、仁海僧正が自分の亡き母が牛に生まれ変わっているという夢を見たので、その牛を苦労の末見付け出して世話をしていたが、とうとうその牛が死んでしまった。仁海僧正は嘆き悲しみ、ついにその皮を剥いで曼荼羅を描き本尊として安置しました。
 その後、五世の増俊僧正が曼荼羅寺の子院として「隨心院」を建立。七世・
親厳僧正の時の1229年、後堀河天皇から門跡寺院となる宣旨を受け、以来歴代の摂関家の子弟が住持となっていました。
 しかし、応仁の乱で全てが焼失し、現在の建物は慶長4年(1599)九条家から入った二十四世・増孝上人が幕府の援助により再興しました。

 続きます。

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