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2014年2月19日 (水)

河井寛次郎の足跡を訪ねて その2

 昨日の続きです。
近鉄電車の山田川駅近くで、お昼を済ませた後は、今度は北に向かって歩くことにしました。
最終の目的地は、新祝園駅(しんほうそのえき)です。

 歩き始めてから直ぐに目に入ったのは、このお墓でした。
 場所は、「北ノ庄」と言う集落です。

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「藤原百川公墓」とあります。
(ふじわらのももかわ)とは、奈良時代末期の上級官人です。
「大化の改新」で中大兄皇子(後の天智天皇)を助けた、藤原鎌足の曾孫に当たります。
道鏡の専横を阻止し、追放して光仁天皇を立て、さらに山部親王(のちの桓武天皇)を助けて、平安遷都への道を拓いた人です。
 その辺りに墓があったことは古い記録にあったものの、その後墓の存在が不明になっていたのを、明治27年(1894)に、墓の存在をここと決め、平安遷都1100年記念事業として、正式にここに墓を造ったとのことです。

 やがて「吐師」(はぜ)の集落に入りました。

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集落内を暫く歩き回りました。狭い道が迷路の様に繋がっていました。

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 この集落では、長屋門と言うのでしょうか。このような形の門構えが、多く見られました。

042a

 この集落でも、蔵が目に付きました。このお宅の建物の構造は、やや複雑な形をしているように思いました。
幾つもの棟が見られます。

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 門の様子は撮っていませんが、こちらも長屋門と言えそうです。
右の建物は蔵と思われます。この集落の家々は、何処も立派な建物が多いように思いました。

 木津川市(吐師)から、精華町(菅井)に入りましたが、田んぼや畑ばかりの道に出て仕舞いました。
行った道は行き止まりだったり、田んぼの畦道だったりと、9月の暑い太陽の中を右往左往して、やっと広い農道に出ることが出来て、ほっと一息。

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 精華町菅井の集落の田畑の部分です。集落の横を通って、近鉄京都線の線路沿いの道に出ました。
横田と言う集落も対象になっていたようですが、右往左往とれ果て、真っ直ぐ新祝園駅に向かうことにしました。

 今回の散策の元になったのは、陶芸家・河井寛次郎のエッセイ「火の誓い」(講談社文芸文庫)です。
その元は、雑誌「民藝」の1944年7月号に発表されたものだそうです。

 
その一文から、
今年の三月の或る日自分は南山城の山田川村の大仙堂の部落から、大里、北の荘、吐師へかけて次々に見付かる素晴らしい村の姿に惹きつけられて歩いた。・・・(中略)
 
幾部落かを経て吐師を出て、暫く野中の広い新道を行くと川西村菅井の部落にでた。
 ・・・(中略)・・・
 短い日を惜しみながら帰ろうとして新祝園駅に急いだ。
真直ぐな新道の中に駅は見えていたが、祝園に這入る手前の左に低い丘地の上に素晴らしい一と村が盛り上がっているのを見ては素通りは出来なかった。・・・(後略)
 
今回、私達はほぼ上に書かれている範囲を歩いたことになります。
 「低い丘地云々」は、精華町の今の学姸都市があるところを指しているものと思います。

 
上記に書きました文章は、公益社団法人 精華町シルバー人材センター内の「ふるさと案内人の会」から戴いた資料の一部を使わせて戴きました。
 有難うございました。

 

 

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