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2012年6月24日 (日)

NHK大河ドラマ「平清盛」に登場した現場に立つ 保元の乱 1

 前回までは、白河・鳥羽両法皇が築かれた「白河院や鳥羽離宮」跡の現場に立ちましたが、今回は鳥羽法皇が崩御されるや起こった「保元の乱」の現場に立ちました。

 「保元の乱」は、兄・崇徳上皇と、弟・後白河天皇との王の座をめぐる戦いだけではなく、
公家や武士達も親子や兄弟が対立して戦いました。

 崇徳上皇方~藤原頼長 平忠正 源為義・為朝など
 後白河天皇~藤原忠通 平清盛 源義朝など

 結果は、夜襲を実行した後白河方が勝利をおさめました。
崇徳上皇は四国・讃岐に流され、頼長は流れ矢に当たって落命、
忠正と為義は清盛と義朝にそれぞれの手で処刑されました。

 では、乱が始まったそれぞれの現場から、ご紹介します。

 時は、保元元年(1156)6月1日から動きがはじまり、
7月5日から戦機が熟し掛けて来ました。

Img_3562a

ここは「高松神明社」です。姉小路通釜座東入る北側にあります。
鳥居の左下には「此付近高松殿址」の石碑が見えます。
ここは、後白河天皇が即位された所です。
乱では、後白河陣営の本拠地でした。
清盛や義朝達は、ここから出陣しました。7月11日未明のことです。

Img_3572a

Img_3570a

ここは「三条東殿」(または東三条殿)跡です。
場所は姉小路通烏丸東入る南側ですが、実際には三条烏丸の東北にあった120m四方の広大な場所です。
建物は「新風館」(しんぷうかん)です。以前は「京都電電ビル西館」で、旧・京都中央電話局でした。京都市登録有形文化財です。

ここは、はじめ白河法皇の院の御所となり、のち鳥羽法皇も院の御所とされ、后の待賢門院と共に住まわれました。
後白河天皇は、乱が始まるや「高松殿」から、ここに移動されました。

Img_3576a

「鴨川」です。勿論当時はこんな状態ではなかったと思いますが、戦いは川を挟んで激しい戦闘が繰り広げられました。午前4時頃のことです。
その場所は、写真の中央辺りとされています。
遠くの山並みは、北山連峰です。

Img_3588a

ここは「白河南殿」跡です。琵琶湖疏水の「夷川発電所」の貯水池です。

Img_3584a

左端が発電所、小さく見える銅像は琵琶湖疏水の推進者「北垣国道」像、
建物は琵琶湖疏水事務所夷川分所です。

実は、その後の戦いの舞台はここではなく、ここより北にあった「白河北殿」なのですが、
探したのですが石碑などは見当たりませんでした。
「白河北殿」は、この貯水池から右手奥、丸太町通を挟んでさらに北に広がっていたようです。

「白河北殿」は、崇徳上皇側の本拠地でした。
藤原頼長も、ここに合流しました。
武士達(源為義・為朝、平忠正ら)も、ここに参入しました。

崇徳上皇側の抵抗が強く、とうとう後白河天皇に、北殿の焼き討ちの許可を得て、
清盛と義朝達は放火に踏み切りました。
午前8時頃のことです。

 崇徳上皇は、滋賀県の「三井寺」を目指して落ち延びられました。
 藤原頼長(悪左府・山本耕史さん扮する)は、父を頼り宇治に行きましたが、拒まれ大和へ逃避の途中で死亡しました。
 武士達も、それぞれ逃げ延びましたが、後に捕らえられました。

※尚、NHKドラマ「平 清盛」に関連しての記事は
     カテゴリー「
地域 歴史」をご覧ください。

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