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2012年5月22日 (火)

方丈記が書かれて800年 その2

 前回(その1)の続きです。
鴨長明は、下鴨神社の禰宜のトップ(宮司)の家の御曹司でしたが、
父親の死で権力争いに敗れ、その座が継げませんでした。
そのために、出家し大原に籠りました(多分世を拗ねての隠遁生活に)。50才でした。
そして54才の時に大原からここ日野に移っています。

 その日野の地に行って来ました。日野は、京都市内の東南(伏見区内)です。
日野と言えば、貴族の日野家の本拠地であり、代々女性が室町幕府の足利将軍家に嫁いでいます。
有名なのは、足利義政の室・富子です。
また浄土真宗の祖・親鸞聖人の出身地でもあります。

 長明が移り住んだのは、法界寺の裏山(と言っても少し離れています)の中にある大きな岩の上でした。
そこに、(その1)でご紹介した、折畳み式の庵を置きました。
その場所まで、結構急坂を登らねばなりません。
何でこんな場所に?と思わざるを得ません。
余程俗界から離れたかったのでしょうね。

 法界寺で、その場所を教えて頂いてから、山道を辿りました。

Img_1318a
山道を喘ぎつつ、やっとその下に辿り着きました。
左上に、石碑が見えます。
山道の入り口から約15分位掛かったでしょうか。
行き交う人もありませんでした。

Img_1316a
岩の上と言うと、この辺りかと思いますが、平ではありません。
どうやって庵を置いたのでしょう?
「方丈」即ち1丈四方、約3m四方の庵、四畳半より少し大きな建物を
ここにどの様にして建てたのでしょうか?
折畳み式とは言え、一人では無理かと思います。
ここまで部材を運ぶのも大変なことです。

Img_1306a
左の石碑は地元ライオンズクラブが建てられたもので、まだ新しいです。
右の「長明方丈石」は、裏を見ますと「明和三年壬辰」とありました。
文面は良く判りませんでした。
明和3年は1766年になりますが、壬辰は1772年です。
その間のことは判りませんが、何れにしても江戸時代中期の頃です。
田沼意次が老中になった時です。
長明が亡くなったのは、「方丈記」を書き上げて4年後、
建保4年(1216)で、62才でした。
上の石碑は500年以上も後のことですね。
兎に角、長明はここで「方丈記」を書き上げたと言うことです。
長明の出家に因縁浅からぬ後鳥羽院は、ここへ2度も御出でになっているとか。
昔の人は天皇でも足腰が達者だったのですね。
長明の僧侶の名は「蓮胤」(れんいん)と言います。

Img_1319a

「日野法界寺」(ひのやくし)は、真言宗醍瑚派に属し、日野家の菩提寺です。
浄土真宗の開祖・親鸞聖人は、この寺で生まれました。
毎年1月14日に行われる「裸踊り」は、修正会の結願行事として有名です。 
この「法界寺」の東には、親鸞聖人の「誕生院」↓が建てられています。

Img_1326a

 またその近くには「えな塚」などがあります。
Img_1328a

 鴨長明が書いた「方丈記」には、3.11東日本大震災に匹敵するほどの惨状をリアルに書いているそうです。
一度読んで見なければなりませんね。

     ※お詫びとお断り
22日の朝からパソコンの調子が悪く、業者に依頼しました。
その為に急遽、コメント欄を閉じさせて戴きます。
返事も書けていませんが回復後に書かせて戴きます。

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