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2011年8月 9日 (火)

京都太秦アラカルト(その2)

 昨日の続きです。
まず始めは、「えっーホント?!」と言うお話です。
  下の写真は、何の変哲もない、普通の井戸ですが、これが凄いのです。
「いさら井」と言います。

Img_2479

Img_2482

 井戸の石枠の前面に微かに「いさら井」の文字が見えるかと思います。
この井戸を作ったのが、秦氏で、実は秦氏はユダヤ人だったと言うのです。「イスラエルの井」が訛って「いさら井」になったとか。                        昔は、洛西有数の名水が湧き出していたと言います。
正確な由緒は判らないそうですが、面白い話ではありませんか(この話は、平成10年発行の「うきょうを歩く」のとっておきのWalkingマップに載っていたものです)。

 時代はうんと下って、江戸時代後期に、独自の写生画風を大成した「円山応挙」のお墓が、広隆寺に近い「悟真寺」にあります。

Img_2484

 真ん中が応挙の墓で、「源 応挙」と刻まれています。

Img_2485_2

 両側に並ぶ墓石にも「源 某」と刻まれています。

次は、これです。

Img_2488

 この建物は、「右京ふれあい文化会館」と言い、この地域の文化活動の拠点となっていますが、さてこの建物何かに見えませんか。
 そうなんです。映画のフィルムが、巻かれた状態です。
建物は、曲面になっており、上下の枠はフィルムの送りコマです。
 また、会館の周辺の樹木の根元には、下の様な保護板が敷かれています。

Img_2048

 これは、セメント製ですが、映画のキャメラとフィルムが模りされています。
上の建物と言い、この板と言い、右京区の代表的な文化財の一つ、映画の町「太秦」を、徹底して表現している様に思いました。

 最後に、ポケットに京都ひとつ・らくたび文庫のNo36として、「映画の町 京都太秦さんぽ~大映通り界隈~」が、発刊されました。
発行所は、株式会社コトコトで、1冊 500円です。
下は、その本の表紙です。

Img_2148

 今回で、太秦地域シリーズは終わりです。
私の独り善がりで、お判り難かったかと思います。                            

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地域 歴史」カテゴリの記事

コメント

エッ!(゚_。)(。_゚)・・・?
秦氏は実はユダヤ人・・・だったのですか (゚O゚)エェーッ?!
ビックリです。そんな昔にユダヤの方が来日していたとは?!来日というか渡来した理由が何だったのか、そちらに興味が湧きます。
円山応挙と言えば、有名な虎の絵がありますよね。それぐらいの知識しかありません (^_^;;ハズイ!本当の姓は円山ではなく源なのですか?
太秦が本当に”映画の街”であることが良く解かりました。フィルムを模った建物、樹木の根元のデザイン、確かに”日本のハリウッド”ですネ!

慕辺未行さんへ
秦氏とユダヤとの関係は一見荒唐無稽の様に思われますが 秦氏の当時の経済力から考えると 頷けないことではありません 平安京建設には秦氏が持つ敷地が提供されたとも聞きました
日本海を中心にした地図を南北逆さまにして見ますと大陸(さらにその奥地の国々・中東など)からの人の移動(いわゆる渡来人たち)は割合容易に想像できますよ

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