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2011年7月18日 (月)

京都における明智光秀のゆかりの地を訪ねて(その3)

 「京都における明智光秀ゆかりの地を訪ねて」の今回は、番外編としてやや視野を広げて、ご紹介します。
 では、少し歴史を振返ってみたいと思います。
(1)永禄11(1568)年9月~織田信長が、岐阜から足利義昭を擁して入京し、上京と下京の間に二条御所(旧二条城)を、義昭のために造営する。

(2)天正10(1582)年6月~本能寺の変がおこり、織田信長が自刃した。
続く山崎合戦で、明智光秀も横死した結果、羽柴秀吉が頭角をあらわす。
  (以上は、京都市歴史資料館の資料による)

 上記(1)にある、織田信長に、足利義昭を引き合わせたのは、義昭の側近だった細川藤孝(のちの幽斎)と明智光秀だと言われています。
 信長が、義昭のために建てた「旧二条城」跡が、一部発掘されています。
城は約390m四方(京都市内をご存知の方はお判りかと思いますが、東は今の京都御苑内の東洞院通・北は出水通・西は新町通・南は丸太町通の手前)の広大な敷地に、ほぼ70日間の短期間で造られたそうです。
 石垣用に、石仏・五輪塔・墓石なども使ったようです。
「旧二条城」跡は、京都市営地下鉄・烏丸線の工事の時に発見され、石垣の一部が「京都御苑」の西南に復元されています。
Img_4005
  発見時は、南面していたものを南北方向に変えて、復元されています。
もう1カ所は、「平安女学院大学」の東北角にあります。
この地は、城のほぼ中心地に当たるとのことです。背景は同大学の建物です。

Img_4012_2
 この当時の二条城(将軍の御所)には、足利将軍義昭は勿論、信長・藤孝・光秀・秀吉などが出入りしていたことでしょう。

 次に、上記(2)の場面です。
ご存知かと思いますが、織田信長が明智光秀に攻められ自刃した「本能寺」は、当時での北を六角小路(今の六角通)・東を西洞院大路(今の西洞院通)・南を四条坊門小路(今の蛸薬師通)・西を油小路(今の油小路通)に囲まれた、一辺約140m四方もある広い寺院でした。
 2007年に、京都市などが発掘調査の結果、堀の跡や焼けた瓦などが出土したとのことです。ある程度の防御施設はあったようです。
 軒丸瓦には「能」の字の右側が「去」になった字が、刻まれています。
本能寺は度々火災に見舞われた様で、「火=ヒ」を避ける意味で「去」にしたとか(↓の写真の文字をご覧ください)。

Img_3986
 旧本能寺(信長が自刃した)跡には、上の様なモニュメントが建てられ、後ろの建物には「本能寺ギャラリー」があり、史料が並べられていますが、行った時は閉館でした。

 この辺りの町名も下の様です。
Img_3996
 京都市内の各所には、この様な掲示板があり、下部にそこの町名が書かれています。↑は旧本能寺があった町内のものです。どこかで見慣れた顔のポスターが掲示されていました。

 下は、現在の「本能寺」です。豊臣秀吉が、京都の町の大改造の折に、ここに移転させたものです。
Img_4000
 現在の本能寺は、寺町通御池下る東側にあります。
Img_4001
 本堂は、改修中で覆いに覆われていました。

 そこで、ふと思い付いたのは「真如堂」です。ここからは、自分でも意外な展開になります。
 まず、なぜ「真如堂」かと言いますと、以前京都の映画製作のところでご紹介したと思いますが、明治41(1908)年に牧野省三が日本初の時代劇映画「本能寺合戦」を撮ったのが、実はこの「真如堂」だったのです。
Img_4014
 真如堂の正面です。
そして、映画で「本能寺合戦」の舞台になったであろう場所です。
Img_4017

 この映画は、勿論観ていませんが、この場所で織田信長が白い小袖を着て槍や弓矢で、森 蘭丸ら部下達と必死に、明智軍と戦っている場面を想像してみてください。それを記念して、下の記念碑が建てられています。
 この映画の信長役は誰だったのでしょうか?最近では、現在放映中大河ドラマの吉川晃司、印象に残っているのは反町隆史や、やや昔の高橋幸治など。
 皆さんはどなたでしょうか。
Img_4026
 この碑の建設に賛同し寄付された方の名前・合計80名が、碑の下に銘板で張り付けられています。女優さんでは、佐久間 良子、名取裕子、三田佳子、中村玉緒、岩下志麻、富司純子、吉永小百合。男優さんでは、長門裕之、里見浩太郎、津川雅彦など時代劇でお馴染みの方々です。

 少し境内を歩いていると、「たてかわ桜」と言う木があります。何気なく説明板を読んでいると驚きです。この桜は、徳川3代将軍家光の乳母の春日局が、父斉藤内蔵介利三(としみつ)の菩提を弔うために植えたものですが、斉藤利三とは他ならぬ明智光秀の重臣です。そして、春日局は利三の娘です。
Img_4020
 徳川家康は、その様な人の娘を孫・家光の乳母にしたのですね。
雅量があると言えます。
斉藤利三は、本能寺の変の時に捕らえられ、秀吉軍に処刑されています。
その首を、親交の深かった東陽坊長盛と海北友松(絵師)が奪って持ち帰り、真如堂に葬ったのです。ここには、利三・東陽坊・友松の3人の墓があります。
Img_4022
 右が利三、左が友松の墓です。東陽坊の墓は、この墓地内の違う場所の様です。友松は、浅井長政の家臣・綱親の子だそうです。
 なお、妙心寺の塔頭「麟祥院」は、徳川家光が春日局の菩提寺として建立したもので、その隣の「智勝院」は、斉藤利三夫妻の墓所です。
また、妙心寺の境内には「明智風呂」があり、光秀の叔父が光秀を追善するために建てたものです。

 以上で、やっと明智光秀ゆかりの地のお話は終りです。
このシリーズをお読み頂いてありがとうございます。

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コメント

今の二条城と昔の二条城は違う場所にあったのですね。私は今の二条城が昔からずっとあるものだと思っていました。
本能寺の能の字の件は、何かのTV番組で知りました。とは言え、すっかり忘れていましたが…(^_^;;!
京都映画誕生の碑、これも興味深いですね。

慕辺未行さんへ
お早うございます
平安京の区域は平坦な土地ですから平城(ひらじろ)ならどこにでも造れたのではないかと思います
朝廷の力が衰えて来ますと武家たちが平安宮の周辺に城を造っています
豊臣秀吉の「聚楽第」や徳川家康の「二条城」など 平安京の跡地を取り込んでいますね
その頃には京都御所は現在の地に移っています

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