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2011年7月12日 (火)

京都市内の坂本龍馬ゆかりの地を歩く(その2)

 昨日の続きです。
お龍(りょう)さんゆかりの地が中心です。

 お龍が独身時代に住んでいたと言う寓居跡ですが、
木屋町通に面していて、石碑が建てられています。

Img_5652
 にこやかに微笑んでいる方は、「京都龍馬会」の会長さんです。
ここは、お龍の父が亡くなったため、母親やお龍など遺族6人は困ってこの辺りに移住したとの事です。
後にお龍は七条新地に働きに出ますが、その直前までここに住んでいた様です。
なお、ここは「龍馬おりょうの資料館」となっています。

 次は、土佐藩邸跡です。

Img_5650
上の場所の近く、南寄りに拡がっていた様です。手前は高瀬川です。
ここは、土佐藩の京都における活躍の根拠地でした。
龍馬も出入りしていたのでしょうかね。

 次は、お龍の生家・楢崎家跡です。

Img_5787
 お龍の父・楢崎将作は、青蓮院宮に仕える医師でした。
お龍は、その長女として天保12年(1841年)生まれました。
誕生の地から、暫くしてここに移り住んだと言われています。
父が亡くなるまでは、良家のお嬢さんとして、裕福に暮らしていた様です。

Img_5786

 次は、六角獄舎(三条新地牢屋敷)跡です。

Img_5662
ここには、安政の大獄で捕らえられた多くの政治犯が収容されていました。
「禁門の変」の時、ここにも火勢が迫って来たので、幕吏は獄中にあった攘夷派の志士たち30数名を斬ったそうです。平野國臣・古高俊太郎などです。

またこの地は、宝暦4年(1754年)に医師山脇東洋が、我が国で初めて死体解剖を行なった所とも言われています。
左に見えるのは、その記念碑です。

 続いて、近くにある武信稲荷神社(たけのぶ・いなりじんじゃ)です。

Img_5663
平安時代この近くにあった藤原氏の学問所と医療施設の守護社として、右大臣藤原良相によって創建されたと伝えられています。

Img_5664
このエノキは、平 重盛が安芸宮島の厳島神社から苗木を移して植えたと言う伝承があります。
 このエノキの幹に、龍馬が「龍」の字を彫ったと言う事です。
その訳は、お龍の父・楢崎将作が捕らえられて、隣の六角獄舎に収容されていたので、龍馬とお龍が何度か訪れたが、面会叶わず、この大木の上から様子を探っていたと言います。
 龍馬も追われる身でしたから、このエノキに「龍」の字を彫り、自分は今も生きている、そして京都にいることを示すための龍馬からの伝言だったと言う事です。
今はもう、その字は全く見えませんでした。
 
「京都市内の坂本龍馬ゆかりの地を歩く」はまだ続きます。

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コメント

京都にお住まいだからこそ、紹介できる『龍馬ゆかりの地』ですね。
こういうところが残っているのも、戦火を免れた京都だからこそ…、ですね。

慕辺未行さんへ
仰る通り京都は殆んど戦災を被っていませんので遺跡や史跡は残っていますが 厳密に言いますと
京都の歴史研究者は2度の大きな戦火のため無くなったものは多いと言われます
2度とは 応仁の乱と蛤御門の変です
その他にも大火が2度あり多くの町家が焼失しています

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