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2011年6月16日 (木)

日野富子ゆかりの地を訪ねて

 京都府ウォーキング協会主催の「女たちの京都」の第2回目は「日野富子」ゆかりの地を訪ねて歩きました。 
今回のタイトルは「日野富子と応仁の乱」です。
尚、第1回目は「紫式部ゆかりの地を訪ねて」歩きました。
 京都市内ではお年寄りの間で、この前の戦争と言えば幕末の「蛤御門の変」(”どんどん焼け”又は”鉄砲焼け”とも言います)
であり、その前の戦争と言えば「応仁の乱」だと、半ば冗談めいて言われています。
 ※日野富子のことや”応仁の乱”については、最後に少し書きました。
興味の有る方はご覧くださいね。

 歩き始めて先ず訪れたのが「華開院」(けかいいん)です。

Img_0877a

浄土宗のお寺です(写真の元気元気の女性は私では有りませんよ(^_-))。
 墓地は上の本堂の裏手にあり、日野富子のお墓があると伝えられていますが、わかり
ませんでした。
 皇室関係のお墓(例えば、後円融天皇御母や後小松天皇御母の御墓など)や尼門跡などのお墓はありました。

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「人形寺」で有名な「宝鏡寺」(ほうきょうじ)です。
ここには日野富子の木像が、阿弥陀如来立像の脇に安置されています。
その像は、如何にも男勝りの富子の姿を如実に現したものです。
 又、”百々御所”と呼ばれる格式の高い尼門跡寺院で、代々皇女が住持となり、皇室との関係が深い尼寺です。
丁度「春の人形展」が開催されていました。

 「宝鏡寺」の外部・東端角に置かれている「百々橋」(どどばし)の礎石です。
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この石は、応仁の乱の戦場として歴史に名をとどめる「百々橋」の礎石の1つです。応仁の乱の際、細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の両軍が、橋を隔てて数度にわたり合戦をしたそうです。
 この石が置かれているのは「小川通」で、その小川には橋は架かっていました。また、この小川通には、お茶の「表千家」や「裏千家」の両家元の茶室・今日庵や不審庵が並んでいます。

 「応仁の乱勃発地」である「上御霊神社」に来ました。
この石碑は、神社の入り口の横に建っていますが、うっかりと見過ごしそうな場所です。
Img_0887a

 文正2年=応仁元年(1467)正月18日早朝、この神社の森で合戦が始まりました(合戦のどよめきが聞こえるような気がしました!(^^)!)。

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神社の拝殿です。
 御霊とは、奈良時代・平安時代初期に不運の内に亡くなった八柱の神霊が祀られたといわれ、その後明治に5社が増祀されています。
怨霊のたたりとする御霊信仰から”御霊会”が始まったとされています。

 「花の御所」跡の碑がある「大聖寺」です。
室町幕府・室町御所、すなわち「室町殿」があったところです。
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大聖寺は、「御寺御所」(おてらごしょ)と呼ばれ、臨済宗の尼門跡寺院です。
足利将軍・義満が室町第に岡松殿を建てますが、その没後に寺に改めたのが始まりとされます。
向こうの建物は、同志社大学の”寒梅館”です。

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今出川室町の東北隅に建っている石碑です。
「従是東北 足利将軍室町第址」と刻まれています。
”室町第”とは、室町将軍家の居宅ですが、ここで政務を執ったことから、征夷大将軍の役所の意味で、室町幕府と呼びました。
(歩いた日3月20日)

 











※「日野富子」について
永享12年(1440)~明応5年(1496)の生涯の人です。
康正元年(1455)16才の時に、室町幕府・第8代将軍の足利義政に嫁ぎました。寛正6年(1465)に男子・義尚を生みます。その時既に義政は弟・義視を養子として、次期将軍としていたため、両者間で反目が生じ、これが応仁の乱の一因となりました。
 その後、義政が政治に飽き無関心となったため、夫に代わり政治の中心に身を置くようになりました。
政治の中心と共に、経済の中心ともなり、富みの集約にも力を発揮し、大名にも金を貸すなども行いました。
 義政の死後は、一位の尼となり、目まぐるしく変わる将軍の決定にも関与し、尼御台として力を有していました。57才で亡くなりましたが、多くの遺産を残したとのことです。

 「応仁の乱」について
最近は「応仁・文明の乱」と言われています。
この乱の勃発は、文正2年(1467)、京の都の上御霊の森からとされますが、それ以前から守護大名間や内部での深い対立が続いていました。
それが、この年の正月18日早朝、畠山政長が兵約2千を率いて、ここに布陣しました。これに対して対立していた畠山義就が兵3千で攻め寄せ、激しい合戦となりました。
 その後、細川勝元が東軍となり、山名宗全が西軍(陣地を置いたので、のちに”西陣”と呼ばれるようになりました)となり、更に足利将軍家の内部対立も絡み、11年間の国内戦乱となりました。

 この乱程複雑で判り難い戦乱はないと言われています。
この乱の結果、京の都の町の大半は焦土と化し、多くの社寺が焼失しました。現在、応仁・文明の乱の戦火を免れたものは、ごく少数だと言われています。
戦乱を避けて地方に移った公家などもいましたし、西陣の機織の職人達も、乱を避け地方に疎開したそうです。
 庶民の生活は、さぞかし大変だったのではないでしょうか。
(今回もご一緒させて頂いて、とても勉強になりました(^-^))
 
 音楽は、ビゼー「カルメン」より「ジプシーの踊り」をお聴きくださいね。

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