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3月28日は文句なしの晴天でした、
京都は観光客で溢れ返っていました。特に京都駅周辺や地下鉄の京都駅と東西線と烏丸線の乗換駅の烏丸御池は・・・・
京都御苑の糸桜は、前回は22日の様子をご紹介しましたが、その後の様子が見たくて、いいえ、日曜日の天気予報は雨。もしかしたら?の心配も有り、午前中に行きました。
既に大勢の観光客で、人を撮っているのか桜をとっているのか?
いずれにしても見事な、真っ白な綿菓子のような桜の塊です。
日本人は桜が好きですね。撮っていても嬉しくなるのが桜だと思います。
写真を撮っている人、ベンチに腰かけてお弁当を広げている人、平和そのものの光景です。その後で植物園に行きましたが、7分咲き位の枝垂れ桜の下で、お弁当を広げている家族を見ました。
3本の糸桜の木が有るのですが、何処もカメラマンの行列?です。
勿論、私もその一人ですが。
京都御所にあった公家屋敷の中で最後に残った貴重な建物として 重要文化財に指定されている、冷泉家のお庭に咲いている桜です。
後ろの建物は同社大学今出川キャンバスです。
何故か上品な佇まいに見えるのですが・・・
おにぎりを買ってくれば好かったと後悔しながら、520円のランチでお腹を満たしました。
その後 京都ひと まち交流館で「亰てまり」を拝見して、京都府立植物園へ向かいます。
「京 歩き」は残容量が少なくなり、4月から「京 歩き(2)」で、ブログを作ります。引き続きご覧戴きますようお願いします。
この「町家のひなめぐり」は今回で9回目となるそうですが、私たちは3年前に初めて行きました。
これも町興しの一環だと思いますが、参加協力されたご家庭(商売屋さんも)は以前と同じ程度かなと思われました。
今回は今日ご紹介するメイン会場、「京 歩き(2)」では、城下町・高取の町並、ご家庭の雛飾り(こちら)などを紹介しています。
何体ほどの雛飾りが展示されているのでしょうか?
高取の地域の方達の協賛でしょう。
↑の雛段を分けてみました。禁フラッシュで写真は鮮明では無いです。
立派な御殿雛です。
人形の動きや表情にスポットを当ててみました。
何となく楽しいですね。
よくこれだけの人形を集められたことですね。
「町家のひなめぐり」に対する町の方達の意気込みが感じられました。
昨日の続きです。
「関宿」の町並みの凡そ半分位は来ましたが、未だこの辺りは「中町」かと思われます。
「関宿」を代表する大旅籠の1つ「玉屋」です。江戸時代の建築で、「関町並み資料館」にもなっています。
「玉屋」の入口・店の間で如何にも旅籠と言った感じです。
旅人は、ここで草鞋を脱ぎ、足を洗って上がり込み、あてがわれた部屋へと進みます。
多分お金持ちの人でないと、ここには泊まれ無かったかも知れませんね。
地元の和菓子「関の戸」のお店です。「きゅうひ」を砂糖でまぶした和菓子です。勿論買って食べましたが甘い甘いお菓子でした。
「高札場」の跡。後ろの建物は、「関郵便局」で、ここが「関宿」のほぼ中央との事です。
「関地蔵院」で国指定の重文(建造物)です。
右手が街道。本堂(正面)や愛染堂(左手に)、鐘楼の3棟が指定対象です。
天平13年(741)行基の開創と伝えられています。
近郷の人々や旅人達の信仰を集め、現在でも多くの参拝客で賑わっています。
「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」と俗謡にも謡われています。
ここも大旅籠の1つ「会津屋」です。元は「山田屋」と言ったとか。
2階の部屋の手摺に凭れ、街道を行き交う人達を眺めたりしたのでしょうか。
また手拭いなどを干したりして。
また、右隣の家の2階が「洋風意匠」の窓が付いていて、「洋館屋」と呼ばれています。古風な町並みの中で、極めて目を惹く外観でした。
ここら辺りから、「新所」の町並みに入ります。
説明板が見当たら無かったので、良く判らないのですが、江戸時代の関宿の特産物として「火縄」があり、この辺り「新所」を中心に数十件の火縄屋があったそうです。
火縄は、鉄砲に用いるため大名の御用があり、また道中の旅人が煙草などに使うために購入したため、大いに繁盛したようです。
私の推測ですが、このお宅は、「火縄屋」の1軒では無いかと思いました。
表側の造りが、他では見られ無かった頑丈なものになっています。
いよいよ「西追分」まで来ました。
県指定の史跡・西追分です。この建物は、休憩施設で「鈴鹿関跡」の調査成果がパネル展示されています。
ここは、東海道と大和・伊賀街道の分岐点でもあります。
旧・東海道の「西追分」付近の様子です。東から西方向を見ています。
この先は、次の宿場町「坂下宿」に至り、「鈴鹿峠」の難所に向かいます。
約200軒ある「関宿」の町並みは、見応えがありました。
町屋は、最も古いものは18世紀中頃の建築で、明治時代中頃までのものが半数以上を占めています。殆どが「平入り」の建物でした。
国の重要伝統的建造物群保存地区の指定にぴったりの、見応え十分の町並みでした。
前回の続きです。
「関宿」の約3分の1まで来ました。お昼を済まして、「中町」を西に向かって歩き始めました。
「中町」の町並みを見通しています。
さらに西へ歩みを進めます。格子戸が美しい家々が軒を連ねています。
「脇本陣」の「鶴屋」さんです。
「玉屋」(次回に出て来ます)「会津屋」と共に、「関宿」を代表する旅籠の一つので、江戸時代の終わりには脇本陣も務めました。
座敷の前についた千鳥破風が、その格式を示しています。
「吉沢家」住宅です。明治・大正年間に「岩木屋」と称して、酒造業を営み
「岩泉」と言う名前のお酒を販売していたそうです。
同時に味噌や醤油も造っていたとのことです。
「山車倉」(だしくら)です。「関の山」の語源にもなった関宿の山車は、最盛期には16基もあったそうです。互いに華美を競い、また狭い関宿を練ったことから生まれた言葉です。現在は4台の山車が残っていますが、4か所に「山車倉」があります。
「百六里庭」の「眺関亭」からの眺めです。今まで歩いて来た道を眺めています。「百六里庭」は、関宿の町並みの中に生まれた小公園で、関宿が、江戸から百六里余りあることから名付けられました。
「眺関亭」は、物見台になっていて町並みをやや高いところから一望出来ます。
同じ場所から、これから向かう方向を眺めています。
奥に見える大きな屋根は、「関の地蔵院」です。
関宿には、川北本陣と伊藤本陣の2軒の本陣がありました。
本陣は、参勤交代の大名や、公家、公用の幕臣などが利用した格式の高い宿泊施設です。現在残るこの建物は、本陣の店の部分にあたります。
「伊藤本陣」跡の近くにある「橋爪家」で、角地に建っています。
「橋爪家」は、江戸時代の初めから、両替商を営み、江戸にも出店を持つ豪商でした。街道に面して、三角形の屋根を見せるこの建物は、関宿では珍しいものです。
ここまでで、関宿の約半分位は来たでしょうか。次回に続きます。
京都府立植物園の桜が咲き始めました。
3月22日(日)の午後に行きました。
先ず、北山門から入って右手にある「桜見本園」を見ました。
その中で一際目立ったのが、この「オカメザクラ」でした。
比較的背が高く、美しいピンク色でした。
取り付けられた名札には、「シナオウトウ×ソメイヨシノ」と書いてありました。
見本園ですから、初めて目にする名前の桜もあります。
これは「啓翁桜」(ケイオウザクラ)と言います。福岡県久留米市で、シナミザクラ台木にコヒガンを接木したものだそうで、吉永啓太郎に因んで命名されたとか。
一部をアップで見ています。
桜見本園を離れて、お馴染みの桜を探して歩きました。観覧温室の向い側一帯で、お馴染みさんを見付けました。
カラミザクラ(唐実桜)で、白系の花です。
カラミザクラのピンク系の花です。どちらも「蕊」(シベ)が長いですね。
「京 歩き2」でも他の桜やアンズの花も紹介しています。
そちらもご覧くださいね。
↓はおまけ?の「カタクリ」 ユリ科の花です。
植物生態園で咲いていました。可愛くて思わずカメラを向けましたが、
小さい花は苦手です。
上手く撮れていませんが花の風情だけは解って戴けたことと思います。
3月22日の午前、京都御苑の南では梅が、北では桜が咲いていました。
先ず南の梅ですが、「黒木の梅」と言われている梅です。
旧九条家邸の近くにあります。九条家邸にあったものが移されたと聞いています。
ほぼ満開に近い状態でした。
遠くに見えるのは、京都御所の「建礼門」です。そして、その後ろに見える大きな屋根は、「紫宸殿」です。
この広い道は、「葵祭」や「時代祭」の行列が出発して通るところです。
陽光を一杯に浴びて、気持ち良さそうです。
次に、北の方にある「旧近衛邸跡」の糸桜を見に行きました。
旧近衛邸跡の手前にある早咲きの糸桜です。
皆さん良くご存じの様で、多くの人が来られていました。
咲き始めたところの様です。
ここの桜は、四方に大きく枝を広げているのが特徴です。
花が多く咲いている枝を選んでみました。
咲き具合を良く見ますと、こんな様子でした。3分咲き位でしょうか。
この後、御苑内の桜の様子を見て回りましたが、未だ開花には至っていませんでした。
先日の梅便りによると5分咲きとのことでしたが、4月中旬の暖かい日が続き昨日は終日の雨でした。
20日は朝から晴天です。思い立って9時30分頃、二条城に到着です。
最近の外国からのお客様は東南アジアの方が多いのですが、何故か京都御苑や二条城、特に二条城では姿を見かけることは少なく英語圏の方が多いように思われます。
既に多くの方が写真を撮ったり、梅を愛でながら愉しんでおられます。
お城の石垣や城壁など、出来るだけ二条城の一部を入れて撮りました。
主人公はお堀です。
少し散っている梅も有り、全体的にはやや遅かったようです。
枝垂れ梅の方が比較的綺麗なように思えました。
木としては若いですが容姿端麗の枝垂れ梅です。
これは梅とは違いますが、多くの方がカメラを構えたり背景にして撮られていました。
二条城は桜が有名でこれから多くの種類の花が楽しめます。
最近は夜は出かけませんが、数年前に訪れた桜のライトアップは幽玄の世界でした。
この後京都御苑に桃の花の開花状況を見に行きました。
「関宿」(せきじゅく)は、江戸時代の東海道53次の内の、江戸から数えて47番目の宿場町です。三重県亀山市にあり、電車で行く場合は、JR草津線の柘植駅で関西本線に乗り換えて「関」駅で下車します。
駅からは、歩いて約10分程です。「関宿」は、国の「重伝建群保存地区」に、昭和59年に指定されました。
「関宿」の範囲は、東西の追分の間約1.8Kmあり、江戸時代から明治時代に建てられた古い町家が200軒余りあります。
町並みは、3つに分かれていて、東から「木崎」 「中町」(ほぼ真ん中) 「新所」 と言います。
「関宿」の東の入口にあたる「東の追分」で、三重県指定の史跡です。
東海道と伊勢別街道との分岐点です。
大鳥居は、伊勢神宮を遥拝するためのもので、20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮の際、内宮の宇治橋の鳥居が、ここに移されて来ます。
常夜灯や道標なども残っています。
「木崎」の町並みです。電線は表通りには無く、裏の通りにあって、裏から表に取り込む形になっているそうです。
「東の追分」の近くにある「岩間家」です。屋号は「白木屋」と言い、建物は200年以上経っているとか。昔は、街道で働く人足や車夫の定宿だったそうです。
格子戸に吊り下げられているのは、「絵手紙」です。これから見て行く各戸に見られます。
この辺りの各家は、新しい様ですが、古い町並みに合わせた形で、造られています。
「木崎」の町並みが続いています。この辺りの家々も比較的新しい感じがします。
「浅原家」で、屋号は「江戸屋」と言いました。江戸時代は、米や材木を商っていたとのことで、「万延」の記録があるとか。「万延」とは、1860~61年です。「桜田門外の変」があった年です。この建物は、江戸期の面影を見事に留めていると言われています。虫籠窓や「ばったり」(床几)も見られます。
「御馳走場」とあります。「御馳走場」とは、関宿に出入りする大名行列の一行を、宿役人が出迎えたり見送ったりした場所です。
関宿には4か所の「御馳走場」があったそうです。
「御馳走場」跡を少し横道を入ったところには、「大井家」があります。
「大井家」は、代々「玄庵」と名乗る医家でした。眼科・産科・内科など専門としていた様です。明治初年には、西洋医学も取り入れ、種痘も出掛けたとのことです。
JR関駅から、この街道に入った角にある「岩」と言う食事場です。
お昼はここで戴きました。お弁当を頼んだのですが、風呂敷に包んで出て来たので吃驚しました。
江戸時代は「岩間家」と言い、幕末に建てられ、明治・大正には料亭を営んでいたそうです。
ちょつと判り難いと思いますが、左端の庇の上に何やら物体が見えます。
漆喰彫刻で、魔除けの虎だそうです。他にも、鯱・亀・鶴・鯉・龍などがあるそうです。
「木崎」の町並みは、ここまでで次は「中町」の町並みを歩きます。
京都市営地下鉄・烏丸御池駅情報です。
①南北に走る「烏丸線」のホームに、漸く「可動式柵」が設置され、昨年末から運用が始まりました。障害者の皆さんの強い要望で実現しました。
烏丸線の「国際会館」方面行きのホームです。
↓その線路側です。
これが新たに設置された「可動式柵」の全景です。
京都市では、来年度には四条駅と京都駅にも設置する予定とのことです。
柵と電車の扉の閉じ方のタイミング差です。良く考えて見れば難しいところです。この様子ですと、電車の扉が閉じる方が先行しています。これでは、「駆け込み乗車」は出来ませんね。
写真の電車は、相互乗り入れしている「近鉄電車」です。奈良行き急行も走っています。
因みに、東西を走る「東西線」は、開通当初から全駅で「扉式」になっています。
これなら安全ですね。扉の色は、駅毎に変化します。
これが、その認定証です。2001年に、京都市交通局では初めてのことです。
2004年には、東西線の「山科駅」が選ばれています。
掲示場所は、東西線から烏丸線の竹田駅方面行きへの乗り換え階段の正面です。
同じ壁面の左側には、こんな絵が貼られています。
右側に貼られている絵です。
これらの絵は、京都市営地下鉄開業20周年記念として、
左側は、20世紀の京都「京の四季」と題して、京都市立高倉小学校の平成12年卒業生・58名の制作によるものです。
右側は、21世紀の京都「人・自然・伝統」~共に生きる街 と題して、京都市立御所南小学校の平成12年卒業生一同114名の制作によるものです。
何れも、平成13年5月12日に掲げられました。
最後に、烏丸御池駅の東西線から烏丸線・竹田駅方面への乗り換え通路の様子です。この先に、そのホームがあります。
烏丸御池駅は、乗り換え駅ですので、結構人の動きは激しい方です。
私も、良く利用している駅です。これからも、しっかりと利用させて戴くところです。地下鉄は市バスに比べて、所要時間が読めて、目的地に安心して到着出来ます。少し遠回りでも、地下鉄を利用する様にしています。
2月21日から、NHK京都放送会館の新館がオープンしましたが、この烏丸御池駅が最寄駅となりますので、駅の階段などにその表示がされたりしています。後日にご紹介したいと思っております。
今年は天神さんや京都御苑(ここです)では、可憐な梅の花を愛でることが出来ましたが、何故か植物園では初めてです。
天気予報では朝夕は曇り昼間は晴れとの事でしたが、結局晴間は無し。
これ以上は愚痴になりますから、早速梅の花をご覧ください。
北山門から入った所です。日曜日ともあって多くのカメラマンが来られています。
一眼レフと三脚の方が圧倒的に多く「うわ~ッ カメラマンばっかりやなあ」の声も聞かれます。
三脚を使っておられる方は中々場所を代わらない・・・
ラッパ水仙の上に一枝の白梅です。
早朝まで雨が降ったので、蕾に雨粒が落ちそうに頑張っています。
蕾に押され気味?の白梅の枝や花にも雨粒です。
この日は不運にもカメラ同好会のような方達が多く来られていて、皆さん一様に三脚を並べ指導者の説明を受けていて場所を動かない。
諦めて梅林に向かいました。天候の影響も有ると思いますが、静かな梅林です。
太い木に寄り添うように、飾るように白梅の枝が伸びています。
梅の花には申し訳ありませんが、綺麗な花は有りませんでした。
この後、園内を散策しますが太陽の顔を見ないと、何となく何も撮る意欲がわきませんでした。
友人からお誘いを受けて、久しぶりに3人で京料理を戴きました。
閑静な京都御苑の東にある「御所雲月」さんです。
正確に言いますと、寺町通今出川下ル西側です。
予約をしてくれていて好かったです。
当日は30人程の団体客が有り、通されたのは木の香りのするカウンター(堀炬燵式)でした。
ざわめきは少しも聞こえず、一品一品頃合いを図って出される料理は最初は量的に少し物足りなく思いましたが、品数が多く目で味わい口で味わっているうちに満腹感で幸な気分になりました。
寺町通に面したお店の玄関です。京町家を利用しておられます。
角を曲がった南面にも入口があり、今回はそちらの方から入りました。
ではこの日戴いたお料理です。
ごま豆腐酢味噌和え
シマアジとヒラメのお造り
鯖 寿 司
ご飯が何処に有るのか?
百合根と椎茸 蕗の白和え
蕗の香りが一足早い春を運んでくれました。
エビのくわやき
ゆ ば 鍋
大豆たんぱく質の宝庫でしょうか?少し煮立って来たら、焦げない内に
戴きます。
炊 き 合 わ せ
胡麻麩のかき揚げ
どのお料理も凝った器に盛られていてこれも京料理の特徴と言えますね。
鯛の身のごはんに味噌汁
お釜で焚かれた熱々のご飯です。食べ残したときはおにぎりにして持ち帰りますが、いつものように少しも残さず完食です。
デザートの わらび餅
です。
帰り支度をしていたのですが、引き止められてデザートは別腹で美味しく戴きました。
お味はどれも薄味ですがこれも京料理の特徴ですね
お値段は3000円(税抜き)です。信じられない安さでしたが、玄関で、すき焼きに最適の「お出し」まで戴いて、申し訳ない気持ちで心からお礼を言わせて戴きました。
京料理を堪能した後は、京都御苑(こちら)で可憐な梅の花を愛でることが出来ました。
京都市内の地名の不思議さ・面白さを、高野 澄先生のお話を聴いて以来、実際にその場所に赴き、実感を味わっています。
今回は、「天使突抜町」です。「突抜町」と言う地名は、市内のあちこちにもありますが、「天使」と付いているのは、ここだけです。
一見した時、「天使突抜町」なんて、ふざけた名前だと思いますが、ちゃんと歴史があり、謂れもあるのです。
先ず、その通りは、「西洞院通」の一筋西の通りで、北は仏光寺通から、南は木津屋橋通までの、全長約1.5Kmある短い通りです。
正式には、東中筋通と言います。
通りの誕生は、豊臣秀吉の京都改造によって出来た通りです。
「天使」とは、この神社のことです。
下京区西洞院通(手前の道)松原下ルにある「五条天神社」(正面)です。
昔は、ここを「天使の社」と呼ばれていたそうです。
拝殿に近寄って見ました。周りを高いビルに囲まれています。
平安遷都の時に、弘法大師が大和宇陀の天神をこの地に勧請したと言う
古社です。
弁慶と牛若丸との戦いも、この場所だとも言われています。
松原通に面した鳥居です。
右手の石碑には、「皇国医祖神五条天神宮」と刻まれています。
昔は医薬の神として、庶民の信仰を集めていたそうです。
豊臣秀吉の京都改造で、「五条天神社」の境内を突抜けて、新しい道が造られました。秀吉は新たに町中を突抜けて道を造り、住宅を増やして、税収を増やしました。
西洞院通と油小路通との間をぶち抜いて、新しい道を造りました。
この通りが、「天使突抜通」です。北から南を見ています。
ご覧の通り、道幅の狭い道路です。そして、何の変哲も無い道路です。
「天使突抜町」は、1丁目から五条通を越えて、4丁目まであります。
五条通を少し上ったところから、北を見ています。
女性達が集まっておられるところは、鉄道の会?とか表示が見られたところです。
始めに書きました様に、秀吉の京都改造により、多くの「突抜町」が出来ており、地図を見ていますと、幾つかの突抜町の文字が見られます。
平安京を造った町並みの一角が、120m四方では、広過ぎて住み難くなり、また税収を上げるために、真ん中に道をぶち抜いて、多くの矩形の町を造りました。
ご訪問ありがとうございます
本日出かけておりますのでコメント欄は閉じさせて戴きます
ウクライナの子供たち ~平和へのメッセージ~ チャリティー絵画展を拝見しました。
ウクライナ・ドネツク地方の子供たちが描いた平和を取り戻し明るい未来のために描いた心の絵の展覧会です。
絵画200点の中の極一部ですが、ご覧下さい。
(ウクライナ・キエフと姉妹都市である京都 「京都市国際交流会館(ここか)」で開催)
展示200点の殆ど、↓3点を除いては明るく優しい平和な様子です。
それに心打たれ、子供たちが望む平和な時が訪れる事を心から願わずにはいられませんでした。
会場内の展示より抜粋
ウクライナ首都キエフで反政府デモ隊と治安部隊の衝突が起きて早1年が過ぎようととています
目を覆いたくなるような独立広場の光景は新しい大統領が就任され元の美しい森の都キエフとその姿を取り戻しています
しかし、当時独立宣言をしていたドネック地方は空爆を受け国際空港をはじめ街は破壊され多くの一般市民が犠牲となりました
その中には親兄弟を失った子供たちも少なくありません。
そのような状況下で子供たちが描いた「心の絵」です。
今年で第10回目となる、京都府立植物園の「早春の草花展」が、2月13日から始まり翌日の14日に出掛けました。開催場所は、昨年と同じく大芝生地の特設会場です。
今年のテーマは、「世界の春」と言うことで、世界各地の草花が咲く地域を再現した形になっています。勿論「日本の春」もあります。
それでは、展示の順を追って、ご紹介して行きます。
まずはチューリップの国 「オランダ」です。詳しくはこちらをご覧ください。
次は「オーストラリア」です。詳しくはこちらをご覧ください。
「南アフリカの花」です。
次は「北米の森林」ですが、こちらをご覧ください。
そして「日本の春」ですが↑と同じ場所でご紹介しています。
ピンクの枝垂れ梅です。
最後は雪割草です。
この「早春の草花展」に間に合うように、少しでも多くの方に見て戴けるようにするために、職員の方やボランティアの方達が昼夜を問わず努力されています。
改めてお礼を申し上げたい気持ちでいっぱいです。(3月22日まで開催)
久し振りに、丹波橋の「通り庭ギャラリー」へ行って来ました。
今回の展示は、企業物で日本の電器メーカーのものが主体でした。
松下電器(現・パナソニック)をはじめ、東芝・日立・三菱など各社のものが展示されていました。
「知る人ぞ知る」 ギャラリーの表側です。右手の入口から入ります。
一番奥に、でんと置かれていたのは、これでした。
今回の展示の目玉の1つかと思われます、木製キャビネットのナショナル・テレビ(型式T-1481)です。昭和32年1月7日付の「保証書」付きです。「保証書」も展示されていました。当時は、テレビは未だ高価でした。
ナショナル関係が続きます。
手前はナショナル真空管のPR用風呂敷、右側の3体の人形は、パナカラーのキャラクター、真ん中はナショナル乾電池(セイコー時計用)、左側はナショナル洗濯機のミニチュアーなどです。
懐かしい看板などもありました。右下の写真は、松下幸之助氏ではないでしょうか。「松下電気器具製作所」の名前も見られます。
松下電器と三洋電機との創業時の歴史が判るホーロー看板ですね。
現在では、三洋は松下(パナソニック)の傘下に入っています。
こんなものもありました。キャラクターの「メル子ちゃん」の髪留めも三菱のマークになっています。
もう1つの目玉は、これかと思います。
「東芝日曜劇場」(テレビドラマ)の出演者のサイン入り風呂敷です。
今は亡き方も含めて、懐かしいお名前が並んでいます。
東芝製品なのに、何故「マツダ」なんだろうと不思議に思っていました。
何時も感心して拝見していますが、よくぞこれだけのものを集められたものだと。ギャラリーのオーナーの収集力や情熱に脱帽です。
京都御苑を後にして梅情報の「チラホラ咲き」の天神さんに向かいました。
この日は25日に行われる梅花祭の上七軒の芸妓さんによる野点の準備の最中でテントが張られ、肝心の梅の花は見ることが出来ませんでした。
仕方なく?神社の建物の一部を取り入れて写しました。
大門を入った所、宝物館の前の梅です。
金色の釣灯篭と紅梅。
石の灯篭と紅梅。
同じく灯篭と紅梅です。
影が出来ていますね。
朱色の拝殿と白梅です。
こちらは一番人気!でカメラマンが場所の取り合いです。
最後は枝垂れ梅に向かって盛んにシャツターを切っている人達です。
手前は白梅なのですが、灯篭の白色に負けています。
晴天は嬉しかったのですが、日差しが強くて、花に生気が感じられなかったことです。
花を撮るタイミングの難しさを実感した京都御苑と天神さんでした。反省!!
今回訪ねた場所は、「塩竈町」(しおかまちょう)と「本塩竈町」(ほんしおかまちょう)と、2つの地名があります。
塩竈町は五条通に面していて、富小路通と高倉通の間の奥行の狭い範囲です。もっとも五条通は戦中に拡幅されたものですから、五条通も含まれるのかも知れません。
本塩竈町は広大です。河原町通と五条通に囲まれたところで、大体は西は高倉通、南は六条通に拡がっています。
その訳は、この地名の元になっている「源 融の別荘・河原院」の広大さによるものと思います。「河原院」は、平安京の中でもトップクラスの広さの邸宅だった様です。河原とは、鴨川です。「源 融」については、最後にご紹介します。
この付近に「河原院」があったとされるところです。
見えている大木は榎です。「河原院」にあった森の名残だとか。
右側には「高瀬川」が流れています(当然当時には無かったものですが・・・)。
左側には「鴨川」があります。北から南を見ています。
近寄って見ました。
榎の大木の根元には石碑がありました。「此附近 源融河原院址」とあります。この石碑がある場所は、本塩竈町の東端(と言うよりも違う地名)です。
「河原院」の広大さが、良く判ります。
五条通の北側にある「塩竈町」の地名表示です。
塩竈町は、東から富小路通(もう少し東に広がっていますが)・柳馬場通・堺町通り・高倉通と幅広くにあります。但し奥行は狭いです。
五条通に面した塩竈町の一部です。東から西方向を見ています。
右側に停まって入る車の真後ろに「ほっかほっか亭」(弁当屋)が見えますが、
そこは堺町通の角になります。
「本塩竈町」の地名表示です。六条通は、本塩竈町の南の端になります。
河原町通から、本塩竈町の一部を見ています。本塩竈町には10か寺以上のお寺が集まっています。そんな中で、画面に見える「市比売神社」(いちひめじんじゃ)は、女人を守ってくださる神様です。本塩竈町の真ん中辺りの通りにあります。
最後に、幾つかのことについて、ご紹介させて戴きます。
「源 融」について
○822~895年の人、嵯峨天皇の第8皇子で臣籍降下して、源姓を名乗りました。嵯峨源氏です。河原左大臣とも言われた。
○嵯峨にも別荘を持っていました。嵯峨釈迦堂(清凉寺)にお墓があります。
○こちら「河原院」内に、陸奥国松島海岸の塩竈浦を模した庭園を造りました。彼は塩竈浦を真似ただけでなく、庭園に海水を運ばせて海を造りました。
「河原院」は8町(約3万5千坪)もあったので、そんなものも造れたのでしょう。
しかし、海水を運ぶのはさぞ大変なことだったと思います。尼ケ崎から運ばせたとか。ここで製塩をした様です。
贅沢極まる貴族の我が儘ですね。
○融は「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルとも言われています。
○塩竈浦は、既に当時の貴族たちに良く知られており、憧れみたいなものもあった様です。九条兼実や在原業平などが歌に歌っています。
○「河原院」は、融の死後宇多法皇が受け継いだのですが、その後は荒れ果てて行きました。
「塩竈町」と「本塩竈町」のこと
○初めに「塩竈町」を名乗ったところ、こちらこそ「塩竈」の本場なりと言うことで、「本塩竈町」を名乗ったと言う経緯があったとのことです。
商品などで良くあるケースですが・・・。元祖・元・老舗など。
「宮城県塩釜市」との交流について
○塩竈の縁で、京都市下京区(本塩竈町・塩竈町の所在区)との交流が、平成21年から相互に訪問する形で、交流が行われています。
「河原町通」の名前は、この「河原院」から生まれたとも言われています。
ご訪問ありがとうございます。
本日出かけておりますのでコメント欄は閉じさせて戴きます。
2月21日は久しぶりの「言う事なし」の晴天。しかも翌日は雨の予報。
今年初めて亰都御苑を散策しました。
目的の一つは勿論!梅の花です。
期待半分で出かけましたが、ご覧のように木によってまだ早かったり、♪遅かったのかい、だったりでしたが、可憐な梅の花に出逢えました。
朝の京都御苑ですが、梅の花を愛でながら数名の方が散策しておられます。
近寄って写しました。
朝陽を戴いて嬉しそうな白梅の可憐さに見惚れています。
出水の小川に咲く白梅です。
空気が綺麗で静かな佇まいの風景です。流石は広い京都御苑です。
梅林に向かう途中で見つけた紅梅ですが、あまり花姿は綺麗だとは言えませんね。
↑と異なった木に咲いていましたが、花色が違いますね
残念ながらどちらも花色は褪せていました。
可憐な蕾が沢山有り、これからが愉しみです。
艶やかなソシンロウバイの花も見られました。
暫く京都御苑を散策した後は今出川に出て、市バスで天神さんに向かいました。
野点が終わって上七軒に帰られる普段は見られない?表情や仕草の一人の舞妓さんの姿を追ってみました。
お点前が終わって、天神さんの境内にを歩いておられる舞妓さんです。
境内を出て帰って行かれる舞妓さん、
お店の方の「お疲れさま」の言葉を受けた後、俯きかげんです。
何方か親しい方を見つけて手を振っておられます。
お相手はこちらの方でした。
沿道の人たちから「可愛い」の声です。
お点前の緊張が解けたのか寛いだ顔は年頃の娘さんですね
男性と別れて上七軒の歌舞練場への道に入られますが、その前にカメラマンに向かって笑顔の挨拶です。
後ろの女性は置屋さんでお手伝いをしておられる方です。
本来の舞妓さんの表情になり
もう一度会釈して歌舞練場の方角に向かわれました。
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